遠藤周作の小説『悲しみの歌』は、19年越し発表された『海と毒薬』の続編です。
かつて人体実験に参加した勝呂が、新宿で開業医をしている数十年後の物語が描かれます。
本記事では、あらすじを紹介した上で、物語の内容を考察しています。
作品概要
作者 | 遠藤周作(73歳没) |
発表時期 | 1977年(昭和52年) |
ジャンル | 長編小説 |
ページ数 | 386ページ |
テーマ | 「海と毒薬」のその後 人が人を裁いていいのか 安楽死の倫理 |
あらすじ
かつて人体実験に参加した勝呂は、今では戦犯の刑期を終えて新宿で開業医をしている。彼の医院にはお忍びで人工中絶を希望する患者が多く訪れる。現在も命を奪う仕事をする彼は、過去の業を引きずり、虚無的な日々を送っている。
そんな勝呂の元に、戦犯の過去を嗅ぎまわる記者が度々訪れる。記者は過度な社会正義の持ち主で、戦争犯罪者がのうのうと生きていることが許せず、勝呂の過去を暴いていく。たちまち人体実験の噂は広まり、抗議の手紙や嫌がらせが殺到するようになる。
ある時、フランス人のガストンが、身寄りの無い老人の診療を勝呂に依頼する。ガストンは悲しんでいる人間を放っておけず、偶然出会った老人にも関わらず、救いたいと願っているのだ。しかし老人は末期の癌で、苦痛に耐えきれず安楽死を望んでいる。
勝呂は激しい葛藤の末、老人に安楽死を施した。老人は感謝しながら死んでいった。その情報を嗅ぎつけた記者は、また勝呂が人体実験をしたのだと問い詰める。勝呂は理解されない絶望的な気分から自ら人生に幕を引く。
勝呂の自殺について記者は、「罪に耐えきれず自殺したのであって自分の責任ではない」と開き直る。それを聞いたガストンは、「彼は悲しい人だった、今は天国であの人の涙を誰かが拭いている」と答えるのだった。
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個人的考察
『海と毒薬』の続編
本作『悲しみの歌』は、『海と毒薬』の続編として19年越しに発表された。
続編の発表にはちょっとした経緯がある。
実は『海と毒薬』は、発表後に評価が分かれ、抗議の手紙さえ届いた。というのも、実際に起こった生体解剖事件を題材にしたことで、事件関係者の感情を逆撫でしてしまったのだ。
実際の事件は、戦時中の1945年、福岡県の九州帝国大学にて発生した。
墜落したB-29の生存者のうち、8名が九州帝国大学に連行され、人体実験の材料として生きたまま解剖された。事実は関係者によって隠蔽・否認されたが、医学部と軍部による計画的実行という見解が強い。最終的にはGHQの調査で明らかになり、B級戦犯として5名が絞首刑、18名が懲役判決となった。指揮および執刀を行った医師は独房で自殺した。
この非倫理的な事件は、あまりの残虐さにタブー視され、時と共に人々の記憶から抹消されていった。それをあえて遠藤周作は小説の題材に扱ったのだ。そのことで事件の関係者から、実験参加者を断罪する目的の内容だ、と抗議の手紙が殺到した。
断罪目的などなかった遠藤周作は、この抗議の手紙にショックを受けた。当初は『海と毒薬』の第二部を執筆する予定だったが、それを断念する結果にも繋がった。
それから19年の年月を経て、ようやく続編の『悲しみの歌』が発表されたのだった。
当初想定していた第二部がどのような内容だったかは判らないが、本作『悲しみの歌』では、戦犯の刑期を終えた勝呂が、過去の罪科をジャーナリストに追及される物語になっている。それは少なからず、『海と毒薬』が断罪目的の小説だと勘違いされたことに影響を受けて生まれた物語だろう。
作中で正義感の強い記者は、戦犯者がのうのうと生きているのは日本人が寛容すぎるせいじゃないか、とバーに同席した小説家に訴える。すると小説家は、自分には分からない、自分は大説家ではなく小説家だから、と答える。
これはまさに遠藤自身の投影、つまり『海と毒薬』において事件関係者を断罪するつもりはなかったことを訴えているのだろう。
このように『悲しみの歌』は、『海と毒薬』が抗議を受けた体験が発端になり、人間が人間を断罪することは正義か、という深いテーマが追求される。
詳しくは次章より考察していく。
勝呂医師が抱える矛盾
米軍捕虜の人体実験に参加し、戦犯の刑期を終えた勝呂は、新宿で開業医をしている。
腕は悪くないが無愛想な彼の医院には、後ろ暗い問題を抱える訳ありな患者ばかり来院する。その多くが、世間にバレないよう人工中絶を希望する患者だ。
人工中絶は命を殺す行為であり、それを気軽に希望する患者に対し、勝呂は内心では違和感を覚えている。ところが勝呂には、人体実験に参加した過去がある。その過去がある限り、勝呂には患者を説得することはできず、現在もなお命を殺す行為に従事している。
それに人工中絶は必ずしも悪とは言えない。腹の中の命を殺すことで、結果的に母親を救うことになる、と考えることもできる。キリスト教圏内では、人工中絶を禁止する地域もあるが、実際は簡単に割り切れる問題ではないし、とりわけ宗教倫理の薄い日本では、完全に否定するのは困難だ。
それでも勝呂の心には、決して埋められない虚無の空洞が広がっている。
そんな勝呂の矛盾をさらに強くするのが、末期の癌を患った老人の入院だ。
老人には孫娘以外に身寄りがなく、偶然知り合ったガストンの手助けで、勝呂の医院に入院することになる。ガストンも孫娘も、老人を助けてほしいと勝呂に懇願するが、老人は強烈な痛みに耐えきれず安楽死を懇願している。勝呂は老人を救ってやりたいと心から思う。しかし老人にとっての救いとは、痛みからの解放、つまり安楽死なのだった。
人がもう一人の人間を救うことなど、できるかね。そんなことは、できはせん。私は人間ば救うために、医者になった男だが・・・この五十年間でやってきたことは・・・人間ば殺すことだけだった・・・
『悲しみの歌/遠藤周作』
人間を救うとは何を指すのか?
『海と毒薬』においても、勝呂は倫理に葛藤し、疲弊していた。戦時中、病院の外では絶えず殺人が行われていた。倫理的に殺人は罪悪だが、戦争という大義名分があれば正義になる。そんな曖昧な倫理観の中で、勝呂は医者として人を救いたいと願い、その手段が分からなくなっていた。患者が実験材料に使われ、しかしその実験が将来多くの患者を救うとしたら、それは罪悪なのだろうか?
そして戦犯の刑期を終え、年をとった今でも、人を救う手段が分からずにいる。倫理的に考えれば命を奪う行為は罪悪である。しかし実際問題として人工中絶を絶対的な悪とは割り切れない。患者の感情を無視して中絶を拒否すれば、患者や赤子を不幸にする可能性がある。
人工中絶は、命を奪うことで人を救う行為なのではないか?
あるいは末期の癌を患う老人も同様である。倫理的に考えれば命を奪う行為は罪悪だが、老人の感情を無視して延命を続ければ、彼を激痛で苦しませることになる。
安楽死とは、命を奪うことで人を救う行為なのではないか?
彼を安楽死させてやることが、もしただ一つの救いならば、なぜ、それを行って悪いのだろうか。
『悲しみの歌/遠藤周作』
このように勝呂は、人を救う行為と、命を救う行為が一致しない矛盾に苦しんでいる。
そして勝呂はこれまでずっと命を奪ってきた。それが本当に正しいとは彼も思っていない。しかしそうせざるを得ない問題が、この世界には確実に存在する。
こうした倫理問題に直面しない、無関係な傍観者、無責任な正義感の持ち主は、勝呂の行為を軽率に断罪する。正義感とは、本質的な問題を無視した、野暮なヒロイズムなのだ。勝呂の苦悩は誰にも理解されない。だから彼は苦しみ続けていたのだ。
人が人を断罪するのは正義か?
記者の折戸は、戦犯者が過去を忘れ、自分を正当化し、のうのうと生きているのが許せない。
そうした過度な社会正義から、勝呂を突撃し、根掘り葉掘り過去の事件について追及する。
これまで取材した戦犯者は決まって、「戦時中は上官に絶対服従で、命令を拒否することはできなかった、むしろ自分は被害者だ」と責任転嫁の言い訳をした。
ところが勝呂は、「断ろうと思えば断れたが人体実験に参加した、理由は疲れていたから」と曖昧なことを言う。折戸には納得できず、ますます勝呂に対する疑念を深めることになる。疲れていたから人の命を奪っただと?
じゃあ君がもし、あの時、私の立場にいたら、どうしたろう
『悲しみの歌/遠藤周作』
この勝呂の問いかけに対し、折戸は、「自分なら人体実験の参加を断った、なぜなら医者は命を救う者だからだ」と明言する。
こんな風に物事を単純に割り切ってしまう、戦争を知らない青年に、自分が当時抱えていた疲労感の正体を理解させることは不可能なのだと勝呂は悟る。
勝呂は今もなお、女の生活を救うために、女の腹の中の命を殺す仕事をしている。そこには人を救う行為と、命を救う行為が一致しない矛盾がある。当事者ではない折戸には、そうした複雑な矛盾が理解できない。理解できないからこそ、割り切った善悪で他者を非難することができるのだ。
折戸が取材内容を雑誌に掲載したことで、勝呂の過去が世間に知られ、彼の医院に抗議の手紙が多数届くようになる。その手紙の多くには、「私たちは民主主義の名において、あなたの行為を批判します」と記されていた。それに対して勝呂は言いようのない憤りを覚える。
誰が他人を勝ちほこって裁けると言うのだろう。裁くこと、追及すること、そして自分たちだけが正しいと思うことが民主主義ならば、それはほかの主義とどう違うというのだ。
『悲しみの歌/遠藤周作』
人間が人間を裁くことは正義などではない。
無知ゆえに、当事者でないゆえに、傍観者であるゆえに、やましさもなく他者を断罪し、そうして自分の正義感を再確認して、ただ気持ちよくなっているだけだ。
SNS時代、過ちを犯した人間を、晒し、吊し上げ、叩く、そんなことは日常的に繰り返されている。それもまた、無知ゆえに、当事者でないゆえに、傍観者であるゆえに・・・
だって裁いている人だって、裁かれた者と同じ状況におかれたら、同じことをしたかもしれん。俺は絶対にそんなことはしなかったと断言できるほど、自信のある人間は・・・この世にはいないからねえ。
『悲しみの歌/遠藤周作』
勝呂を裁く人間も、もし勝呂と同じ時代に、同じ境遇に立たされたら、罪を犯した可能性だって十分にあり得る。しかし彼らは当事者でないゆえに、いつだって自分はその可能性がないと完璧に思い込んでしまうのだ。
勝呂の評判は一気に広まり、患者は途絶え、看護師は退職し、彼は新宿を出て行かざるを得なくなった。
どこに行っても勝呂には罪が付いて回る。しかしその罪とは、世間のことであった。
誰だって怒る権利はある、憤る権利はある。だが他人を裁く資格などどんな人間にも本当はありゃあ、せんのだ
『悲しみの歌/遠藤周作』
ガストンとキリスト
倫理問題に苦しむ勝呂の人生に、奇妙な交流をもたらすのは、フランス人のガストンだった。
ガストンは、人が悲しんでいるのを見ると、自分も同じように悲しくなり、どうにかその人を助けてやりたいと考える性格だった。
ガストンは偶然知り合った老人を看病し、勝呂の病院に入院させ、死ぬ前に老人が孫娘に着物をプレゼントしたい思いを汲んで、過酷な労働に従事する。
勝呂はそんな慈善的なガストンを見て、人間が人間を救うことなどできない、と自分を納得させるように訴える。そんなことはガストンも知っていた。それでも彼は悲しみを抱えた人間に寄り添わずにいられないのだ。
ガストンは、遠藤文学で多く登場する、イエスの化身と言える。それは実際のイエスよりも、遠藤周作が追求した独自のイエス像、同伴者イエス、弱者のためのイエスの色が濃い。
西洋的なキリスト教は父性的で、人間を超越した絶対的な存在として、善悪の価値基準を司っている。もちろん殺人は罪だし、あるいは自ら命を絶った者も天国に行けない。勝呂は多くの命を奪い、最後には自ら命を絶つ。キリスト教の善に反する人生を歩んできたのだ。
だとすれば勝呂のような人間は救われることはないのだろうか。
そんな人間にさえ救いを与えるのが、遠藤周作の追求する、同伴者イエス、弱者のためのイエスである。それは西洋人のように善悪を二極化できない日本人に寄り添う神である。
確かに勝呂は、理由はどうであれ、多くの命を奪ってきた。それは神の裁きを受ける生涯かもしれない。ところがガストンは、そんな勝呂に対しても救いの手を差し伸べようとする。
あなたの苦しみましたこと、わたくーし、よく知っていますから。もう、それで充分。だから自分で自分を殺さないでください
『悲しみの歌/遠藤周作』
生きることに疲れ切った勝呂が、深夜の公園で首を括る直前、最後に耳にしたガストンの言葉であった。
しかし勝呂は自ら命を絶ってしまう。
勝呂の遺体の側には、一匹の野良犬がいて、第一発見者の青年を悲しそうに見つめていた。それはまるで、この人の悲しみがあなたには分かるか、と訴えているみたいだった。
野良犬もまた、イエスの化身だと考えられる。実際に『侍』という作品では、イエスを野良犬に投影させて描かれていた。
人間の心のどこかには、生涯、共にいてくれるもの、裏切らぬもの、離れぬものを--たとえ、それが病みほうけた犬でもいい--求める願いがあるのだな。あの男(イエス)は人間にとってそのようなあわれな犬になってくれたのだ
『侍/遠藤周作』
たとえ法律に裁かれ、世間に断罪されても、イエスだけは勝呂に寄り添い続けたのだ。それが野良犬に象徴されていたのだろう。
苦しみ続け、悩み続け、それでも医者として人を救いたいと願い続けた勝呂は、それだけで充分であり、それを裁ける人間などいない。
ガストンは最後にこんな言葉を口にする。
ふぁーい。ほんとにあの人、今、天国にいますです。天国であの人のなみだ、だれかが、ふいていますです。わたくーし、そう思う
『悲しみの歌/遠藤周作』
人の命を殺め、自分の命すら殺めた勝呂は、西洋的なキリスト教の価値観では天国に行けないのかもしれない。
しかしそんな勝呂の悲しみ、苦しみに最後まで寄り添い続けるガストン(イエス)は、遠藤周作が追求した、同伴者イエス、弱者のためのイエスを体現している。
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