川上未映子『わたくし率 イン歯ー、または世界』あらすじネタバレ解説

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wa1 散文のわだち

わたくし率 イン歯ー、または世界』は、川上未映子の処女小説である。

芥川賞候補に選抜され、坪内逍遙大賞奨励賞を受賞した。

その奇抜なタイトルに劣らぬ、独創的な文体で哲学テーマを描く作風は、唯一無二だ。

一方で独創的すぎるゆえに、物語の理解に苦しむという声も多い。

そこで本記事では、あらすじを紹介した上で、物語の意味を考察していく。

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作品概要

作者川上未映子
発表時期  2007年(平成19年)  
ジャンル中編小説
ページ数144ページ
(表題作ほか1編収録)
テーマ自己本質の追求
自分とは何か?
形而中のわたくし

あらすじ

あらすじ

自己の本質は脳ではなく奥歯にあると決めた主人公は、歯科助手として働き出し、なかなか会えない恋人の青木を想いながら、ひたすら自己について考えている・・・

この世界には、肉体に意識を宿した人間が数えきれぬほど存在し、一人一人が他者と区別できる自己を所有している。その「私」としか名付けようのない自己は、いかにして肉体と一致しているのか。そんな疑問を主人公は生まれる予定のない我が子に向けた手紙に記している。そして主人公は、自己と肉体が一致する場所を奥歯に決めたのだった。

青木と出会ったのは中学生の頃で、彼は川端康成の『雪国』の話をしてくれた。『雪国』には主語のない文章が存在する。その主語のない世界にこそ、自分の知りたい秘密があるように主人公は感じているのだった。

忙しくて会えない青木に歯医者に治療に来たらどうかと提案する。そして青木が歯医者に来た日、治療を終えて帰っていく彼をアパートまで追いかける。すると彼の部屋に知らない女がいた。途端に女同士の修羅場というか激しい口論が始まる。それは自己の本質を奥歯に置く主人公と、人の目ばかり気にする化粧女との、哲学的な価値観と世間一般の価値観の衝突だった・・・・

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個人的考察

個人的考察-(2)

自己の本質を歯に置く意味

川上未映子の処女作『わたくし率 イン歯ー、または世界』は、いわば哲学小説である。

作中で追求される哲学テーマは、その奇抜なタイトルに集約されている。

まず物語は唐突に、わたしは自己の本質を「奥歯」に置く、という一見理解し難い宣言のようなものから始まる。その後もひたすら自己についての哲学的な探究が繰り広げられる。

この宣言の意味を紐解く鍵となるのは、作中で使い分けられる「私」「わたし」「わたくし」三つの一人称である。

わたしと私をなんでかこの体、この視点、この現在に一緒にごたに成立させておるこのわたくし!ああこの形而上が私であって形而下がわたしであるのなら、つまりここ!!この形而中であることのこのわたくし!!このこれのなんやかや!

『わたくし率 イン歯ー、または世界/川上未映子』

要約すると、「私」は形而上の存在、つまり形のない心とか魂のことだ。

一方で「わたし」は形而下の存在、つまり形のある肉体のことだ。

そして「私」と「わたし」が一致する形而中の「わたくし」、つまり心と肉体が一致する場所はどこなのか、という疑問が追究されている。

例えば生命の根源を司る心臓に魂が宿っていると考えることもできる。はたまた意識や思考を司る脳に宿っていると考えることもできる。

しかし主人公は心臓でも脳でもなく、「歯」にこそ自己の本質があると決めたのだ。

心臓なのか脳なのか歯なのか、答えは存在しないが、一つ確かなのは、心が肉体に宿る割合は百パーセントということだ。何パーセントかは他人の肉体に宿っているなどあり得ない。その自己が肉体に宿る割合を「わたくし率」と表現している。

あんたら人間の死亡率。うんぬんにうっわあうっわあびびるまえに人間のわたくし率こそ百パーセントであるこのすごさ!

『わたくし率 イン歯ー、または世界/川上未映子』

これらを踏まえると、タイトルに秘められた意味が解読できる。

『わたくし率 イン歯ー、または世界』とは「自己の本質が歯に占める割合、または世界に占める割合」といったところだろう。

言い換えれば、「自己の本質はこの体の、あるいは世界のどこにあるのか」という問に対して「歯」だと仮定しているわけだ。そして「歯」に限定されないため、「歯ー」と他を含む表記にしているのだろう。

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なぜ「歯」に仮定したのか

では主人公は自己の本質をなぜに歯に、とりわけ奥歯にあると仮定したのか。

それは滅多に人の目に触れることがない場所だからだろう。

わたしは青木の口の中を覗いてみたことがないし青木だけじゃなくて誰の口の中も覗いてみたことないし

『わたくし率 イン歯ー、または世界/川上未映子』

見られることのない「奥歯」に対し、常に他者の視線に晒されるのが「顔」である。視線に晒されるからこそ、人間は自己の本質を顔に置きがちで、その最たるものが化粧だ。

そのときどきの流行のほどこしというのが必ず定期的にやってくるのであったから、結局、皆ここでおなじような顔に包装されてしまうのやった。

『わたくし率 イン歯ー、または世界/川上未映子』

流行の化粧を施す存在が「無記名の女子」と記される。多くの人間は自分の本質を他者の目に触れる場所に置き、だからこそ見た目ばかり気にするのであって、しかしそんな場所に本質はあるのだろうか、という疑問を投げかけているのだろう。

自己の本質は目に見える場所にあるのか。それとも目に見えない場所にあるのか。この対立が最も表れるのは、青木のアパートで女と言い合いになる場面だ。

主人公は相手の女を「人の目ばかり気にする化粧お化け」と呼び、人間の本質はそんな所にないと捲し立てる。対する化粧お化けは、主人公の太った体型や、季節外れの服装や、とにかくブスだの何だの容姿を貶しまくる。それは人間の本質を見えない場所(心)に置く者と、表層(肉体)に置く者の、交わらない平行線の言い合いである。

これはセックスの問題とも関係する。肉体の繋がりと心の繋がりは、ある場合には同等の意味を持ち、しかし両立しない哀しみもある。主人公は青木の口の中に入ることを想像して、彼の奥歯に触れる感覚に、セックスより個人的な繋がりを意識する。他者の本質に触れ、自分の本質にも触れてほしいという願望が表れている。

青木の顔や姿だけを思いだしたりするのではなくてね、何ていえばいいのかなあ、今、青木が、仕事場か部屋か、まあこの世界のどこかにいて、どこかから何かを見てたり、聴いていたりするんでしょう、でも、この世界のなかにその場所というのはそこにただひとつしかなくて、お母さんはそのひとつしかない場所のことを思うのです。

『わたくし率 イン歯ー、または世界/川上未映子』

他者を見ることはできても、他者が見ている世界を見ることはできない。他者だけが所有する自己があって、それは決して共有できないが、主人公はそういう部分で青木と繋がりたいと考えている。だから青木と奥歯を見せ合う妄想していたのだろう。

悪く言えばそれは自己の本質を見て欲しいという高慢な欲求でもある。化粧を塗りたくった表層の自分ではなく、もっと本質的な自己を認めて欲しい。そうした過剰な承認欲求が主人公の「私」の連呼に表れている。

おまえ何千回わたしわたしわたしゆうとんねんこら。いっかいゆうたらわかるんじゃ。わたし病かこら

『わたくし率 イン歯ー、または世界/川上未映子』

面白いのが、主人公が形而上の「私」を主張しても、化粧お化けには形而下の「わたし」に変換されることだ。このことからも、二人が決して交わらない論争をしていると判る。

奥歯に埋めた痛み

主人公が自己の本質を奥歯に置いた理由はもう1つある。それは彼女の歯が健康で、これまで歯痛を経験したことがないからだ。

作中では職場の同僚の三年子と、痛みについての話が交わされる。この世界には痛みの総和があり、増えたり減ったりするものではなく、例えば他者が自分を殴れば、それは他者の痛みが自分に移動したことになる。この原理からすると、強者が弱者を叩くので、弱者にだけ痛みが集中することになる。そして主人公はまさに痛みを受けてきた存在だった。彼女は歯痛を経験したことがないからこそ、他者から与えられる痛みを奥歯に埋めて耐えてきたのだ。

実際に終盤に主人公が受けた虐めについて記される。

ねるまえに、ぜったいまいばんみえへんとこをつねられてた、学校のいきしなまいにちパンツに砂いれられた、集会場のうらっかわでそとからみえへんとこにつれていかれてかさぶた連続でたべさせられた、すわされた、怪物みたいな、あれはなに、あそこにおったん、あれはなに、裸にされてうたうたわされてふりつけがあってそれみてみんなころげまわってわらってた、おはしをおしっこのところにさされて血がでたけどだれにもだれにもゆわれへんかった・・・

『わたくし率 イン歯ー、または世界/川上未映子』

酷い虐めを受けた学生時代に、青木だけが唯一自分と話してくれた存在だった。それは図書室で交わした会話で、川端康成の『雪国』についてである。

『雪国』の有名な冒頭「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という一文には主語がない。トンネルをくぐる列車が主語でも、列車に乗る主人公が主語でもない、英語には翻訳できない日本語独特の文章なのだ。

そして主語がない文章は、主人公にとって自意識の消滅を想起させた。それは地獄のような現実世界に存在する自己を忘れさせてくれる「わたくし率ゼロ」の瞬間だったのだ。

一瞬やったかも知れんけど、どうしようもないわたしも私も消せるかもしれん方法を、青木はあのとき教えてくれた

『わたくし率 イン歯ー、または世界/川上未映子』

恐らくそれ以来、主人公は奥歯に痛みを隠すことで、「わたくし率ゼロ」を擬似的に創り上げてきたのだろう。自分の本質は他者に見えない奥歯にあるので、いくら容姿を貶されようが、酷い暴力を受けようが痛みを感じない、という極限の自己防衛である。そして自分が自分であることの否定の裏返しとして、自己の本質について探求を繰り返していたのだろう。

それはね、死にたいとかそういうことではなくて、生まれてこなかったことにしたいなあ、できたら、というように考える人もたくさんいるということです。だから、生まれてしまって今もうここに在ってしまった自分っていうのが、ほんとうのところなんなのかっていうことも、それなりに考えたりしていなければ・・・

『わたくし率 イン歯ー、または世界/川上未映子』
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なぜ奥歯を抜いたのか

化粧お化けとの熾烈な衝突の末、主人公は奥歯を抜くことを決心する。それは痛みを閉じ込めていた奥歯を抜くことで、苦痛のある現実世界に回帰しようとする克服の展開にも見えるが、そうではないだろう。

奥歯を抜かれるその瞬間に、主人公が考えるのは、やはり『雪国』の主語がない世界のことである。

何の主語のない場所、それがそれじたいであるだけでいい世界、それじたいでしかない世界、純粋経験、思うものが思うもの、思うゆえに思おうがあって、私もわたしもおらん一瞬だけのこの世界、思う、それ

『わたくし率 イン歯ー、または世界/川上未映子』

自己の本質を歯に置く行為は、「私」を奥歯に閉じ込める行為であり、そういう意味で彼女の主体、一人称は歯にあるのだ。その一人称である歯を抜くことによって、彼女は主語のない「雪国」の世界を志向しているのだろう。

奥歯を抜いた次の章では、唐突に語り手に主語がない三人称の世界に転換する。そこで語られるのは永久歯が生えない無歯症の少女のことである。少女が誰なのか不明だし、そこに主人公は不在だ。

「私」たる歯が不在ならば少女が誰なのか判らないし、語り手が不明という、「わたくし率ゼロ」の世界の不安を暗示しているのだろう。

主語のない不感無覚の世界を志向しながら、主語が不在である不安も暗に訴えることで、「わたくし率百パーセント」と「わたくし率ゼロ」の闘争の答えを宙吊りにしている。

主人公は結局いずれの世界に回帰したのか。その答えは我々の想像できる範疇にない。

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