ヘッセの小説『シッダールタ』は、彼の芸術が頂点に達した傑作と言われています。
釈迦の出家以前の名を借りて、求道者が悟りの境地に至るまでの苦行や経験を描いています。
本記事では、あらすじを紹介した上で、物語の内容を考察しています。
作品概要
作者 | ヘルマン・ヘッセ(85歳没) |
国 | ドイツ |
発表 | 1922年 |
ジャンル | 中編小説 |
ページ数 | 164ページ |
テーマ | インド哲学 自我からの解脱 一は全 |
あらすじ
バラモン(僧侶)の子供であるシッダールタは、生まれながらの秀才でした。それゆえに両親や友人が与える愛情や知恵では、彼の容器は満たされず、自我の問題に苦しむようになります。
そんなシッダールタは悟りの境地を開くため、故郷を離れて沙門(修行僧)の一行に加わり、厳しい修行に打ち込みます。しかし、長年修行を続ける沙門の長老さえ、一向に涅槃(本能からの解放)に達する気配がないため、またしてもシッダールタは旅立つことになります。
その頃、仏陀が涅槃に達したという噂が国中に広まっていました。事実、仏陀を目にしたシッダールタは、畏敬の思いにかられます。ところが彼は仏陀の宗門には加わらず、自らの手段で悟りの境地を目指します。ある時は、世俗的な商売を学び、ある時は、愛欲のなすがままに身を預けます。
最終的にシッダールタは、船乗りの男の元に落ち着き、川の流れに魅せられ、一才をあるがまま愛する境地を見出すのでした・・・。
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個人的考察
内面の追求が頂点に達した作品
アウトサイダーゆえに、精神的な苦悩を抱え、ノイローゼを患った少年時代のヘッセ。自殺を仄めかすなど、長らく彼は絶望的な憂鬱に身を沈めることになりました。
しかし、27歳の頃に『郷愁』という作品が大きな反響を呼び、一躍文名を高めます。以降、万事順調のように見えましたが、作家生活の倦怠、離婚、あるいは第一次世界大戦に反対姿勢を示したことで売国奴と罵られ、またしてもノイローゼを患います。
そんな精神的問題を抱えたヘッセは、第一次世界大戦が終結すると、自己探求のための内面の道を辿り、『デミアン』と『シッダールタ』という問題作を創作します。この二作がヘッセの最高傑作と言われています。
インド思想をテーマに執筆を始めた『シッダールタ』ですが、実は発表までに3年の年月を要しました。
父親はインドで宣教師を、また祖父は有名なインド学者であり、ヘッセ自身も20年ほどインド思想を研究していたため、もっとも身近なテーマではありました。ところが研究のみで、実際の宗教的体験を持たない彼には、『シッダールタ』を完成させるのは極めて困難なことだったのです。
作中でシッダールタは、自らが体験した悟りの境地を語るにおいて、言葉の不完全さを主張しています。
だが、これ以上それについてことばを費やすのはやめよう。ことばは内にひそんでいる意味をそこなうものだ。ひとたび口に出すと、すべては常にすぐいくらか違ってくる
『シッダールタ/ヘッセ』
物事は言葉にした途端、本来の意味が損なわれてしまうというのです。
ともすれば、文学として言葉で語る以上、そこに矛盾が生じます。ヘッセが描くべき内容を、言語化することは、その意味を損なう危険性を孕んでいるのです。
言葉や思想ではなく、解脱の体験そのものを描くという難題を克服するためには、これまでのインド思想の知識だけではなく、自身の宗教的体験が不可欠だったというわけです。
第二部以降ばったり筆が止まってしまったヘッセは、それから三年、禁欲と瑜伽(ヨーガ)に勤しみます。いわば、本作はインド思想を学問的に描いたというよりも、ヘッセ自身の悟りの体験を綴った記録と言っても過言ではないでしょう。そういった意味で本作は、内面の追求が頂点に達した作品なのです。
シッダールタが苦しんだ自我の問題
いっさいは意味と幸福と美しさを偽装していた。いっさいは隠れた腐敗であった。世界はにがい味がした。人生は苦悩であった。
『シッダールタ/ヘッセ』
虚偽だらけの俗世を軽蔑的な眼差しで見るシッダールタは、人生を苦悩だと感じていました。そしてその苦悩の根本的な原因は、自分が自分であることです。自意識が存在することで、人間は悩み苦しんでしまうのです。
だからこそ、仏教の修行者は、涅槃(本能からの解放)を求めて修行に勤しんだわけで、シッダールタも同様に沙門の一向に加わり、厳しい修行に取り組みます。
ところがシッダールタは、沙門の修行法について疑問を抱きます。むしろ、彼らの修行は涅槃から目を背けているとさえ感じるのです。
沙門の修行内容である断食と瞑想を、シッダールタは次のように批判します。
それは自我からの逃避、我であることの苦悩からのしばしの離脱、苦痛と人生の無意味に対するしばしの麻酔に過ぎない。
『シッダールタ/ヘッセ』
しばしの麻酔、つまり断食や瞑想は、一時的に自我から逃避しているだけで、根本的な解脱ではないというのです。一時的な逃避であればアルコールでも可能で、今日までの学びは、もっと早く居酒屋で学べた、とそんな皮肉まで口にします。
この物語の面白い点は、従来の価値観に疑問を抱き、シッダールタが独自の手段で悟りの境地を求めるという点です。
彼の疑いの眼差しは、何と仏教の開祖、仏陀にさえ向けられるのでした・・・。
なぜ仏陀のもとを離れたのか
何ぴとにも解脱は教えによって得られないと! 悟りを開かれたときあなたの心に起こったことを、あなたはことばや教えによって何ぴとにも伝えたり言ったりすることはでいないでしょう!
『シッダールタ/ヘッセ』
確かに仏陀は涅槃を成し遂げ、シッダールタも畏敬の目で彼を見つめます。しかしシッダールタは信徒に加わりませんでした。
それはひとえに、言葉の不完全さが原因です。仏陀が体験した涅槃を、言葉や思想にすれば、途端に本質的な意味が損なわれてしまうと、シッダールタは気づいていたのです。
言葉の不完全さ、それはシッダールタが最終的に到達する「一は全」という価値観と関係しています。一つの真理は常にあらゆる側面を有している、しかし、言語化する場合には、あらゆる側面を切り離し、一つの側面だけの意味になってしまう、それが言葉の不完全さです。
つまり、重要な真理は、言葉ではなく、経験によってのみ習得し得るということです。
知る必要のあることをすべて自分で味わうのは、よいことだ
『シッダールタ/ヘッセ』
経験、それは本作の重要なキーワードです。
世俗と享楽の経験から学んだこと
一時期のシッダールタは、愛欲や商売に身を預け、世俗と享楽の生活を経験します。もはや沙門とは程遠い、裕福な立場を経験したのです。
修行僧にとって最も恥ずべき煩悩の生活は、なぜシッダールタの経験すべき事柄だったのでしょうか。
これまでのシッダールタは、世俗の人間を軽蔑し、忌み嫌っていました。彼のみならず全ての沙門は、自らの神聖なる立場ゆえに人々を軽蔑しているのです。
しかし、シッダールタは甘い生活を知り、欲望が満たされる愉快を知りました。最終的には、そういった生活に嘔吐感を覚え逃げ出すのですが、しかし、一度甘い生活を知った彼は、二度と俗世の人間を軽蔑することができなくなりました。なぜなら俗世の人間とは、自分自身に違いないからです。それゆえに、シッダールタは、軽蔑ではなく、関心と同情の思いで、人々を理解できるようになったのです。
この経験は、全ての人間が愛するに値し、讃嘆に値する、という一つの答えを導きました。
世界をあるがままにまかせ、世界を愛し、喜んで世界に帰属するためには、自分は罪を大いに必要とし、歓楽を必要とし、財貨への努力や虚栄や、極度に恥ずかしい絶望を必要とすることを、自分の心身に体験した。
『シッダールタ/ヘッセ』
陳腐な表現で言えば、あるがままのその全てを愛することの重要さ、を学んだのでしょう。
インド哲学的な価値観で言えば、一つのものが全てを孕んでおり、全てのものが絶対的一者、いわゆる梵(ブラフマー)だということです。それゆえにその全てが真理で、全てが愛するに値するのです。
川の流れから学んだこと
最終的にシッダールタは、川の流れに魅せられ、川から多くを学び、船乗りの身へと落ち着きます。
一体シッダールタは、川から何を学んだのか。
川には水が存在するが、しかし絶えず流れるために、一点には常に新たな状態が生み出されています。現れては消える川の水、しかし一切は確かに川の中に存在する。死と世、罪と聖、賢と愚、そのいずれもが同時に存在する状態を川に見出し、シッダールタは、時間を超越した価値観に到達します。つまり、時間など存在しない、という悟りです。
時間が人間に苦悩を招く。今日の聖者が、明日の罪人であるように、時間という隔たりの中で物事を捉えた場合には、一面的な状態(聖者か、罪人か、という状態)でしか認識することができません。しかし実際は、人間は聖者であり罪人である状態を同時に孕んでいるのです。
ここでまたインド哲学的な価値感、一つのものが全てを孕んでおり、全てのものが絶対的一者、いわゆる梵(ブラフマー)だという結論に行き着きます。
涅槃(精神の解放)とは、自分が一つのものであるという状態から解放され、自分が全てのものを孕んでいるという真実に到達することだったと言えるかもしれません。
インドにはガンジス、聖なる河が存在します。生きる人間は身を清め、死者の遺体は流される、そんな河です。つまりガンジスには、生と死が同時に存在するのです。同時存在こそ、梵であり、自意識という個人を超越し、時間を超越した、万物の真理ということでしょう。
などと個人的に考察してみましたが、やはりどこか陳腐で分かりづらい。ヘッセ、ないしはシッダールタが言うように、言葉ではなく経験によってのみしか、真理は解し得ないのかもしれません・・・。
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