遠藤周作『沈黙』あらすじ解説|神はなぜ沈黙を貫いたのか

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沈黙 散文のわだち

遠藤周作の『沈黙』は、最高傑作と名高い代表作です。

史実に基づき、江戸時代初期のキリシタン弾圧をめぐるポルトガル人司祭の葛藤が描かれています。

2016年には『タクシードライバー』で有名なスコセッシ監督によりハリウッドで映画化され話題になりました。

本記事では、あらすじを紹介した上で、物語の内容を考察しています。

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作品概要

作者遠藤周作(73歳没)
発表時期1966年(昭和41年)
ジャンル長編小説
ページ数312ページ
テーマ弱者のための神
同伴者イエス
受賞谷崎潤一郎賞
関連2016年に映画化
(マーティン・スコセッシ監督)

あらすじ

あらすじ

イエズス会の司祭フェレイラが、日本のキリシタン弾圧に屈して棄教したという報せが届きます。フェレイラの弟子ロドリゴとガルペは、事実を確かめるため、またキリスト教を根絶させないために、日本に潜入します。

マカオで出会った日本人キチジローの案内で五島列島に潜入した二人は、隠れキリシタンたちに歓迎されますが、やがて奉行所の偵察が始まり、信者たちは拷問の果てに殺されてしまいます。身の危険を察したロドリゴとガルぺは別行動をとることになりますが、ロドリゴはキチジローの裏切りによって捕えられてしまいます。同様にガルぺも捕えられており、彼は処刑される信者に駆け寄って命を落としてしまいます。あまりに残酷な運命に、ロドリゴはひたすら神に祈りますが、神は「沈黙」を貫くのみでした。

長崎奉行所でロドリゴは師のフェレイラと再会します。にわかに信じがたかった彼の棄教は事実で、なおかつ、彼は日本にキリスト教が根付かないことを悟っていたのでした。

ロドリゴが棄教しない限り、信者たちが拷問を受け続ける状況で、彼は究極のジレンマを突きつけられます。自分の信仰を守るか、棄教によって苦しむ人々を救うべきか。残酷な葛藤に苛むロドリゴに、踏絵のなかのイエスが語りかけます。「踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」その声を聞いたロドリゴは遂に棄教するに至ったのでした。

棄教を認めたロドリゴは、奉行所に仕え、生涯一度も信仰を見せることはありませんでした。しかし、踏絵を踏むことで初めて神の教えの意味を理解したロドリゴは、日本で最後のキリシタン司祭であることを自覚していたのでした。

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個人的考察

個人的考察-(2)

遠藤周作とキリスト教

遠藤周作にとってキリスト教は切っても切り離せないテーマです。生涯、彼は一貫してキリスト教をテーマに小説を執筆し続けました。

彼自身、12歳の頃にカトリックの洗礼を受けているのですが、彼の文学作品には、ある種の「キリスト教に対する懐疑」が描かれます。とりわけ、西洋の価値観に基づいたキリスト教が日本人には解せないのではないか、という問題意識を持っていたのです。

そのため遠藤は、日本人の精神風土に合ったキリスト教というものを模索し続けていました。

初期の代表作『黄色い人』では、日本人は宗教的な倫理基準を持たないため、西洋人のように二元論的な善悪の価値観に相容れないという問題が描かれました。

その後、確固たる地位を築くきっかけとなった『海と毒薬』では、宗教的な倫理基準を持たない日本人が、同調圧力に屈して非道徳的な行為を犯してしまう問題を、戦中の人体実験を題材に描きました。

では、そもそもなぜ日本人には西洋的なキリスト教の価値観を理解できないのか。その問題と向き合うために、遠藤は江戸時代初期の史実であるキリシタン弾圧を題材にして、『沈黙』を執筆したのでした。

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日本人に解せない西洋のキリスト教

キリシタン弾圧の背景は、徳川家康の天下統一にあります。家康が最も恐れていたのは、諸大名が力をつけることです。例えば、参勤交代という代表的な制度は、散財によって諸大名の力を低下させることがひとつの目的でした。

そしてキリシタン弾圧については、対西洋の南蛮貿易によって諸大名の軍事力が高まること、あるいはポルトガルやスペインの侵略を懸念しての施策だったと言われています。

こういった史実としての背景とは別に、遠藤は「そもそも日本という土地にはキリスト教の苗が育たない」という根本的な問題を取り上げました。

「この国は考えていたより、もっと恐ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」

『沈黙/キリスト教』

これは既に棄教したフェレイラが、主人公のロドリゴを棄教させるために口にした言葉です。なんと彼はキリシタン弾圧の脅威よりも、もっと根本的な問題、日本にキリスト教が根付かないという悟りから棄教を決意したのでした。

フェレイラが言うには、いくら布教しても、日本人は神を大日如来として捉えたり、あるいはキリストのように人間を超越した存在ではなく、ブッダという人間を拡張させたものにしか神という概念を見出せないようなのです。

あるいは日本人は古来から仏教についても時代と共に変化させてきました。鎌倉新仏教に代表されるように、その時々で最も民衆に寄り添った形の信仰に作り替えてきたのです。一方でキリスト教は古典的な価値観を重んじ、その教えから外れた信仰を異端呼ばわりし、確固とした父性的な信仰を守ってきました。

これらは殆ど人種的な精神風土の違いであり、それ故にいくらキリスト教を布教しても、日本人は自分達の生活に適した独自の信仰を作り上げてしまうのです。

そんな日本人に、正当なキリスト教の価値観を押し付けても、果たして意味があるのか、というのが本作最大のテーマであり、遠藤周作が生涯追求した問題意識なのでしょう。

ただし遠藤は、決して日本人にはキリスト教は根付かない、と切り捨てている訳ではありません。日本人の精神風土を加味した上で、それに適した独自のキリスト教の価値観を信仰するのもありなんじゃないか、と訴えているのです。

次章ではこれらフェレイラの説得を受けたロドリゴが、何に葛藤していたのかを考察します。

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ロドリゴの葛藤

ロドリゴは基本的に、西洋のキリスト教は日本にも根付くと信じています。そのためフェレイラの説得に対して激しく反発します。

しかし、自分が棄教しなければ、信徒たちが拷問を受け続ける状況を目の当たりにし、ロドリゴは激しい葛藤に迫られます。自分の保身のために信仰を守るのか、それとも信徒たちを救うために自分の信仰を犠牲にするのか。

司祭にとって屈辱的なジレンマの末に、ロドリゴは踏み絵を実行します。その決断至った決定的な要因は、踏み絵の直前に彼に語りかけたキリストの言葉でした。

踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから

『沈黙/遠藤周作』

これは遠藤独自の宗教観であり、賛否を巻き起こした文章でもあります。

本当に全人類に開けた信仰であるなら、ロドリゴのような究極の選択を迫られた人間に、キリストは踏み絵を許可するだろう、という遠藤独自の解釈なのです。

実は出版当初、司祭が踏み絵を踏む結末に対して、カトリック教会から非難の声があったみたいです。正当な価値観からすれば、信仰を捨てることは最も罪深い行為だからです。

しかし遠藤は、非難に屈しませんでした。弱者に寄り添う神としてのイエス像を、後年の作品まで描き続けたのです。

踏み絵の直前にフェレイラが口にした、もしキリストが同じ状況なら信徒を救うために棄教しただろう、という言葉も印象的です。自己犠牲によって人々を救うキリストの精神を極限まで突き詰めた時、神は自らの信仰よりも、目の前の信徒を救うことを優先しただろうと言うのです。そして、その決断をして後悔と恥に苛まれた人間を、キリストは見捨てはしないと遠藤は考えたのでしょう。

「信じるものは救われる、信じないものは救われない」という古典的なキリスト教の価値感から抜け出し、弱さゆえに信じきれなかった人間さえも救う、母性的なキリスト像が描かれているのだと思います。

これはある種、信者たちのエゴイズムを露呈する意図も含まれているように思います。教会から追放されるから、世間から異端だと罵られるから、そういった社会的なエゴイズムを優先した結果、本当に救うべき人間を見捨てているのではないか、という問題提起です。

遠藤自身、日本人の精神風土に合ったキリスト教を模索する中で、周囲に異端だと罵られた立場ですから、もっと広義的に許容する信仰のあり方を見出したかったのかも知れません。

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キチジローのエゴイズムとユダの裏切り

本作最大のテーマである「弱者の神」「同伴者イエス」を考察する上で、キチジローの存在は欠かせません。

キチジローは、信徒たちが棄教に屈さず殉教する中、唯一保身のために何度も棄教します。それのみならず、奉行所に脅されてロドリゴを裏切りさえします。

それにも関わらず、キチジローは最後までロドリゴに追い縋り、救いを求めようとします。

踏絵をば俺が悦んで踏んだとでも思っとっか。踏んだこの足は痛か。痛かよオ。俺は弱か者に生まれさせおきながら、強か者の真似ばせろとデウスさまは仰せ出される。それは無理無法と言うもんじゃい

『沈黙/遠藤周作』

信仰を守るために殉教した強い人間だけが救われ、キチジローのように死を恐れた弱い人間は見捨てられてしまう、それは果たしてキリストが意図した宗教観なのか。

ロドリゴは裏切りを図ったキチジローをユダと重ね合わせており、しかしなぜキリストはユダの裏切りを事前に気づいていながら、「なすべきことをなせ」などと裏切りを仄めかしたのか、ずっと解せずにいました。この蟠りのためにロドリゴは、自分を裏切ったキチジローを心からは許すことができなかったのです。

ところが、ロドリゴもキチジローと同様に棄教を迫られて初めて、キリストがユダの裏切りを許容した理由を悟りました。ロドリゴが踏み絵によって足を痛めると同様、ユダも裏切りによって痛みを感じていたのです。そんな弱い人間の痛みをキリストは見捨てなかったのです。

裏切りや棄教を実行してしまう弱者の痛みを見捨てないことが、「なすべきことをなせ」の真意だったのでしょう。「なすべきことをなしてもお前を見捨てはしない」そう言いたかったのだと思います。まさに「弱者の神」「同伴者イエス」の在り方です。

後年、棄教して日本に永住したロドリゴは、キチジローと関係を維持していました。「弱者の神」「同伴者イエス」としての信仰を悟って初めて、ロドリゴはキチジローを心から受け入れることが可能になったのでしょう。

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神の「沈黙」の意味

信徒たちが殉教していく中、ロドリゴは神に祈り救いを求めます。ところが神は沈黙を貫き、ロドリゴを導いてはくれませんでした。その結果ロドリゴの信仰は何度も危うくなります。

一体神はなぜ沈黙を貫いていたのか。その答えは棄教後の場面で綴られます。

「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」

『沈黙/遠藤周作』

神はロドリゴにそう語りかけます。もしかしたら、かなり都合のいい台詞だと感じた人も多いかも知れません。しかし、もう少し神の言葉を引用します。

「お前が苦しんでいるとき、私もそばで苦しんでいる。最後までお前のそばに私はいる」

『沈黙/遠藤周作』

「最後までお前のそばに私はいる」つまりどんな状況になっても神はロドリゴを見捨てないという意味でしょう。

そもそもロドリゴが神の沈黙を恨んだのは、「信じるものは救われる、信じないものは救われない」という古典的なキリスト教の価値感の中に居たからです。拷問を受ける信徒を救いたい一方で、棄教して自分が神に見捨てられることを恐れる、エゴイズムから来る葛藤だったのです。

しかし神はロドリゴと一緒に苦しみ、最後まで一緒に居てくれる、つまり苦渋の選択で棄教をしたとしてもロドリゴを見捨てることはなかったのです。

それに気づいたことによって、神の沈黙は無関心ではなく、全てを受け入れる許容の表れだったことに気づいたのでしょう。

それ故に、棄教した後もロドリゴは、「この国で今でも最後の切支丹司祭」だと自負していました。やむを得ず棄教に至っても、その苦しみは神と共にある苦しみであり、決して神が自分を見捨てることはないと悟ったのでしょう。

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