村上龍『69』あらすじ解説|作者の自伝的青春小説

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69 散文のわだち

村上龍の小説『69』は、学生運動を経験した作者の高校時代を描いた青春小説です。

他作品に比べてポップな作風のため、純文学が苦手な人でも楽しめる内容になっています。

本記事では、あらすじを紹介した上で、物語の内容を考察しています。

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作品概要

作者村上龍
発表時期 1987年(昭和62年) 
ジャンル長編小説
自伝小説
ページ数244ページ
テーマ60年代全共闘運動
“楽しむ”という戦い
関連映画化(2004)
主演:妻夫木聡

あらすじ

あらすじ

ベトナム戦争と学生運動に揺れる1969年。

佐世保に住む高校3年生のケンは、友人らと高校のバリケード封鎖を決行する。同級生のマドンナ・松井和子の気を惹くためという不純な動機だった。バリ封は成功し、ケンは仲間と達成感を味わうが、間も無く警察に犯行を突き止められ、停学処分になる。

バリ封をきっかけに松井和子と親しくなったケンは、停学明けに、今度はフェスティバルの開催を企む。ロックバンドの演奏や、前衛的な映画や演劇を公演し、フェスティバルは大成功を収める。そしてケンとマドンナはひとときの青春を味わい、1969年は幕を閉じるのであった。

その後、大人になった登場人物たちの現在が語られる。ケンは小説家としてデビューし、そのデビュー作はミリオンセラーを記録し、世間を騒がせるのだった。

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個人的考察

個人的考察-(2)

村上龍の自伝的小説

バリケード封鎖、フェスティバル開催、そんな非日常的な出来事はまるでフィクションのようですが、これらは全て高校生の村上龍の体験談です。

当時は、多少なりとも見識のある人間なら、何かしらの行動を起こした時代で、村上龍もまた目的は違えど、首謀者の一人だったのです。

1952年2月、村上龍はアメリカ海軍基地の街、長崎県佐世保市に生まれました。作中の設定通り、父は美術教師、母は数学教師です。高校に入学した村上龍は、ラグビー部に入部するも半年で退部し、その後は新聞部に籍を置きます。高校在学中はロック・バンド「シーラカンス」を結成し、ドラムを担当していました。そして高校3年生の夏、バリケード封鎖を決行し、無期謹慎処分となります。さらに、再びロック・バンドを結成し、8ミリ映画を撮り、劇団を組織し、市の文化会館を借りてフェスティバルを開催しました。これら一連の出来事は作中で描かれる通りです。

村上龍ほど好奇心旺盛で、マルチな活動をする作家は、戦後を振り返ってもいないでしょう。その活動的な素質は、すでに学生時代から顕著に表れていたことを本作は物語っています。

『69』では、既に作家として成功を収めた村上龍が、高校時代を回想する形で描かれます。後に発表された短編集『村上龍 映画小説集』では、高校を卒業して上京した頃の出来事が綴られています。『69』の続編として楽しめるのでおすすめです。

高校を卒業した村上龍は、バンドメンバーと上京し、現代思潮社の主宰する美学校のシルクスクリーン科に入学します。ところが上京間も無くバンドメンバーとは疎遠になり、美学校も半年で除籍となります。

美学校を除籍となってからの約2年間、村上龍はアメリカ軍横田基地がある福生市で暮らします。その頃に経験した退廃的な日常を描いた『限りなく透明に近いブルー』が、群像新人文学賞を受賞し、同年に芥川賞も受賞します。『69』の作中で綴られるミリオンセラーを記録したデビュー作とは、この『限りなく透明に近いブルー』を指します。

ドラッグ、ロックミュージック、米兵との交流、乱行パーティに溺れる退廃的な若者を描いたデビュー作は、あまりにショッキングな内容で、当時大きな話題を呼び、結果的にベストセラーを記録しました。

このような経緯で、売れっ子作家としての村上龍が誕生したのでした。

ちなみに、35歳になった「ケン」を主人公とする掌編小説集『村上龍 料理小説集』も出版されているので、そちらも是非チェックしてみてください。

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全共闘という流行の時代

現在とは世情や価値観が異なる1969年を舞台にした懐古的な小説『69』。しかし、決して古臭さを感じさせません。むしろ、現在にも通づる、日本社会の性格と、それに抗う個人の姿に共感を持ってしまいます。

その理由は、当時の政治運動が、ある種の流行を象徴していたからではないでしょうか。

我々若い世代からすれば、全共闘や学生運動といったフレーズを聞くと、日本人の若者が政治に関心を持っていた時代があったのか、と不思議な感覚を抱きます。ましてや反体制的な雰囲気が国内に充満しており、抗議運動が盛んに行われていたのですから驚きです。

しかし、実際のところは、全共闘はある種の流行であり、信念のもと運動をしていた人間はごく僅かであるのが事実です。

同年代の作家である村上春樹の小説『ノルウェイの森』では、学生運動で革命を叫んでいた連中は、翌年には真面目に授業に出席していた、と皮肉的に記されています。思想の熱狂は、いわばお祭りの興奮と同様で、目的よりも手段に納まっていることを否めません。

東大・日大闘争に併行して自然発生的に全国に広がった全共闘が、一体何に抗い、何を変えようとしていたのかを明確に説明できる人間は少ないと思いますし、『69』の中でも一切綴られません。彼らが口にするのは、「ベトナムでは毎日何千何万という人間が死んでいるのに!」という決まり文句ばかりです。

この決まり文句が表すように、日本での反体制的な雰囲気は、アメリカの反戦ムードに大きく影響を受けています。

当時の若者文化であるロックミュージックやフォークソングが、こぞって政治的なメッセージソングを歌ったこと、アメリカンニューシネマと呼ばれるカウンターカルチャー映画が次々に生まれたことで、日本の若者にも「文化」というツールを通して、思想が娯楽的に受容されていったのでしょう。あるいは、ヒッピー文化に感化されて、無思想なアナキズムを振りかざしていたのだと思います。(故にヒッピーがこぞって社会復帰したように、日本の学生も翌年には大学の講義に復帰したのでしょう。)

とは言え、流行に便乗した当時の若者が不真面目かと言えばそうでもなく、むしろ彼らはあまりに真面目すぎたように思います。彼らはどこか教養主義的で、無知なくせに教養に羨望を持っています。そしてケンは、教養に羨望を持つ連中を言いくるめるのに長けています。

誰かに自分の案を押しつける時、相手の知らない世界で押しきるのがいいのだと気付いていた。文学に強いやつにはヴェルヴェット・アンダーグラウンドの話を、ロックに強いやつにはメシアンの話を、クラシックに強いやつにはロイ・リキテンシュタインの話を、ポップアートに強いやつにはジャン・ジュネの話を、という具合いにやると、地方都市では議論にまけないのである。

『69/村上龍』

ケンの目的はあくまでマドンナの気を引くことであり、そのために連中を口車に乗せて、バリ封やフェスティバルを決行しました。

ともすれば、ケンの方が遥かに動機が不純です。しかし、ケンは非常に賢く、広く世の中を見渡せる少年だったように思います。

当時の雰囲気が反体制だったばかりに、理知的な印象を受けますが、結局は流行です。大勢が左を向けば、大衆はこぞって左に流される、それは今も変わらない日本人の体質です。その中でケンだけが個人的な目的のもと行動していました。流行に便乗するのではなく、個人的な目的のために生きる。それは現在の我々にとっても、理想的な生き方です。だからケンの動機は不純であるのに、否定的な気持ちが湧かず、むしろたまらなく羨ましいのだと思います。

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ケンの不純さは賢さである

不純な動機で政治活動に便乗したケンですが、彼は決して無思想ではありません。誰よりも明確な思想を持って、当時の日本国内で梯子外しのようなスタンスを取っています。

ケンは不真面目です。一方で友人のアダマや岩瀬、その他全共闘に加担する連中はあまりに真面目です。ケンはそんな真面目な連中と一定の距離を保っています。なぜなら、ケンにとって彼らは退屈な人間であり、真面目過ぎることが暗い人間を生み出すと理解しているからです。

何かを強く信じることは、時に人の自由を脅かします。当時の歴史的事件である、浅間山荘事件はその象徴でしょう。連合赤軍は、革命闘争を名目に、恋愛にうつつを抜かすような「革命に相応しくない」メンバーに、内ゲバによる私刑を下し、計12名を殺害しました。全体的な幸福を追求する思想が、個人的な幸福を抑圧した馬鹿げた事件です。

広く世の中を見渡せるケンは、こういった矛盾を感覚的に見抜いています。だからこそ、自分にとっての幸福が、幻想ではなく、手触りのある快楽だと知っているのです。手触りのある快楽とは無論、美少女です。

陳腐な言い分になるかも知れませんが、美少女を無視したところに、幸福などありません。なぜなら、そこには愛が欠落しているからです。

作中に登場するビートルズやローリングストーンズやボブディランが歌うメッセージソングの中枢には「愛」があります。「愛」のないメッセージは、誰を楽しませることもできません。

村上龍が本作を「楽しい小説」と称するように、物事は楽しくなければ意味がないのです。楽しくないことに時間を費やすのは不毛であり、楽しくない雰囲気は周囲まで憂鬱な気分にします。きっと当時の日本国内には、そういった楽しくない雰囲気が充満していたからこそ、ケンはある種の反逆として楽しむことに全力を注いだのでしょう。

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唯一の復讐は楽しく生きること

唯一の復しゅうの方法は、彼らよりも楽しく生きることだと思う。楽しく生きるためにはエネルギーがいる。戦いである。わたしはその戦いを今も続けている。

『69/村上龍』

あとがきに記された村上龍のこの文章は、小説の主題を的確に言い表しています。

教師や警察といった体制側の人間は、若者に「安定」をちらつかせて脅します。あるはずのない正しさを味方につけて、若者を支配し搾取するのです。

当時の若者は暴力や破壊活動によって、彼らに抗おうとしました。されど権力の手先である彼らに暴力で反抗しても、損するのは確実に若者の方です。だから賢いケンは、暴力ではなく「楽しむ」という方法で復讐を図ったのです。

たとえ退学になっても、と心の中でそいつらに向かって呟いた。たとえ退学になってもオレはお前らにだけは負けないぞ、一生、オレの楽しい笑い声を聞かせてやる・・・。

『69/村上龍』

楽しんだ奴が勝ち、というのが村上龍の人生哲学なのでしょう。

作中には不条理文学を代表する「カミュ」について記されますが、村上龍はまるで不条理というものに対して冷ややかな目を向けています。西村賢太の『苦役列車』が芥川賞を受賞した際には、選考委員だった村上龍は、「高い技術を持っているが、『人生は不条理だ』というテーマは陳腐だと思う」と評しました。

人生には確実に不条理が存在して、それを個人に強いるのは権力者の仕業でしょう。そういったものと対峙した時の人間を描く文学はたくさんありますが、村上龍ほど変化球的で、それでいてあまりにストレートな主義を持つ人間はいません。

不条理に反抗する唯一の方法は、楽しむ以外に他ないのです。

村上龍は、「楽しんで生きないのは、罪なことだ」と言い切っています。楽しんでいない人間は負のオーラを放ち、周囲まで憂鬱な気分にさせ、最終的に暴力的な反抗に発展し、権力者による支配を激化させます。だから楽しまなければいけないのです。それは戦いなのです。我々の憂鬱は、楽しむ戦いを放棄した、怠慢の果てにある公害のようなものでしょう。

繰り返しますが、『69』は、楽しい小説です。

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