村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』あらすじ考察

世界の終わり1 散文のわだち
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村上春樹の小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、4作目に発表された長編作品です。

過去三部作から一転して、新たな世界観の物語が描かれています。

二つの世界が交錯する不思議な物語は何を暗示しているのか、徹底的に考察しています。

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』作品概要

作者村上春樹
発表時期1985年(昭和60年)
ジャンル長編小説
脱リアリズム
テーマ現実世界と観念世界
死者との距離感
小説家としての自伝
受賞谷崎潤一郎賞

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『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』あらすじ

あらすじ

■『ハードボイルド・ワンダーランド
主人公の「私」は、「組織」に雇われる「計算士」である。「計算士」は依頼された情報を暗号化する「シャフリング」という技術を使いこなす。一方で「組織」と敵対する「工場」は、暗号化された情報を解読して盗む活動を行なっている。

ある日「私」は、謎の老博士に呼び出され「シャフリング」を依頼される。その依頼が発端となり、「組織」と「工場」の双方が「私」を狙い始める。

かつて老博士は「組織」に属し、「工場」に解読されない暗号開発に従事していた。それは人間の脳に新たな回路を設け、潜在意識である「第二の思考」を利用する方法だった。しかし老博士は個人的に「第三の思考」を作り、その被験者が「私」だったのだ。この老博士の研究を巡って「私」は狙われるようになったのだ。しかも、「第三の思考」はやがて現実の意識を侵食し、最終的には死と同等の無意識状態「世界の終り」を招くようであった・・・。

■『世界の終り
周囲を壁に覆われた隔絶状態の街に「僕」はやって来た。街の住人は心を持たない故に平穏な日々を送っている。「僕」は街に入る際に「影」を切り離され、いずれ「影」が死ぬと同時に心を失うみたいであった。

ある日「僕」は、「影」に街の地図を作成するよう頼まれる。「影」は街からの脱出方法を模索しているのだ。その一方で「僕」は、図書館の女の子や、発電所の青年と話すうちに、街の正体に気づき、愛着を持ち始める。

「影」の寿命が迫った日、二人は街の出口である湖に向かう。ところが直前になって「僕」は、この街に留まることを決意するのであった・・・。

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『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』個人的考察

個人的考察

同時進行の二つの物語の関係性

本作は二つの物語が各章交互に語られる。

■「ハードボイルド・ワンダーランド」
「計算士」である「私」が、老博士との出会いにより、不条理な運命に迫られる物語

■「世界の終り」
壁に囲まれた奇妙な街に「僕」が迷い込む、おとぎ話のような世界観の物語

二つの物語には所々に連携性が見受けられる。(頭骨が光る場面や、曲を思い出す場面)
そのため、二つは同時進行で起こっている出来事だと考えて問題ないだろう。

では、二つの物語はどのような関係で結びついているのか?

結論から言えば、「ハードボイルド・ワンダーランド」は主人公の現実世界、「世界の終り」は主人公の観念世界である。

つまり、主人公が食事をしたり女の子とデートをする現実世界の裏に、周囲から隔絶された内面の世界が存在するわけだ。

この二つの世界の誕生(分離)には、老博士の実験が関係している。

「ハードボイルド・ワンダーランド」の主人公は、老博士によって、脳に「第三の意識」を埋め込まれた。「第三の意識」とは、現実世界の意識とは異なる、潜在的で空想的な「第二の意識」をより強固にしたものだ。つまりこの「第三の意識」こそ、塀に囲まれた街が象徴する「世界の終り」なのだ。

そして「第三の意識」はいずれ現実の意識を凌駕し、死と同等の無意識状態を招く。これは「世界の終り」で「僕」の「影」が死に絶え、その結果心を失う末路、永久に壁に囲まれた世界で生き続ける状態を意味する。

ワンダーランド2

現実世界の主人公は、「第三の思考」の侵食に対して為す術がなかった。ところが、観念世界の主人公は「街」からの脱出を試みる。

要するに、現実世界が勝つか、観念の世界が勝つか、という葛藤が描かれているのだ。

主人公を侵食する観念世界とは

物語の構造が分かったところで、次は「観念世界」の正体に迫りたい。

村上春樹の作品特有の手法として、観念世界の正体、それが現実を凌駕する理由、そもそも主人公はどんな葛藤を抱えているのか、などの情報が明確には記されない。

分かっている情報としては、主人公は元より、現実世界と観念世界を使い分けて生きていることである。つまり、観念世界に対する耐性が養われているのだ。言い換えれば、主人公は何かしらの闇を心に抱えており、それ故に観念世界に閉じこもりがちな傾向にあるのだろう。

では、主人公はどんな闇を抱えているのか?

これは村上春樹の作品全般に通づるテーマであるが、愛する者と離別が関係していると考えられる。ひいては「死別」とも言えよう。

主人公の生活的な背景として、唯一分かっているのは、かつては妻が存在したが、今は不在だということだ。作中では離婚として語られているが、実際は死別と考える方が妥当だろう。村上春樹の作品では他者の死を、「不在」や「出ていった」という言葉で表現しがちだ。

つまり、主人公は愛する妻との死別によって深い悲しみを抱え、妻の幻影を「観念世界」に見出しているのではないだろうか。そして、死者に対する想いが強いばかりに、自分もその世界に足を踏み入れているのだろう。

「世界の終わり」の塀に囲まれた街には、図書館の助手の女の子がいた。主人公はかつて彼女とどこかで会ったような気がし、やがて彼女に心を惹かれていく。もちろん現実世界の図書館司書の女性と相似関係にある存在と考えることもできる。しかし、死別した妻の幻影という考察も可能ではないだろうか。

「世界の終わり」の住人は心を持たないゆえに平穏な生活を送っている。それは既に死んだ存在であるため、喜びも悲しみも感じないという意味ではないだろうか。そして主人公は妻との死別を受け入れられず、死者と距離的に近づこうと、自分自身も死の世界に足を踏み入れかけているのかもしれない。

つまり「第三の思考の凌駕」「影の死」「世界の終り」とは、実際的な主人公の死とも考えられる。自分も死んで死者の世界に行くのか、それとも現実世界で生きていくのか。

現実世界は不条理に満ちている。もちろん女の子と食事を共にしたり、音楽を聴いたりする喜びもある。その一方で、ある日突然家のドアを破壊され、部屋を滅茶苦茶にされるような不条理が訪れる。しかし死の世界に行けば、喜びがない代わりに不条理もない。何より愛する死者もそこには存在する。

こういった「現実世界」と「死の世界」との狭間で、主人公はどちらに身を据えるべきか葛藤していたのではないだろうか。




森に留まる結末が意味すること

現実を生きるか、観念世界(死の世界)に留まるか。物語の展開としては、壁に囲まれた街から逃げ出す方向に進捗する。つまり現実世界で生きる決心をしたかのように見えた。

ところが最終的に主人公は観念世界(世界の終り)に留まる決断を下す。ともすれば、主人公は死の世界を選んだのだろうか。

その答えは微妙である。なぜなら主人公は、心を捨てて街に留まるのではなく、心を捨てられなかった者が暮らす「森」の中で生きる選択をしたからだ。強いていうなら、現実でも死でもない第三の選択をしたと言える。

心を捨てて街に留まる選択は、主人公の死を彷彿とさせる。では街から逃げ出し現実世界を生きる選択は、死者を見捨て、彼らの存在を忘れて生きていくことを思わせる。だとすれば、心を捨てずに「森」で生きていく選択は、死別の悲しみを抱えた状態を維持するという意味ではないだろうか。

村上春樹の作品(具体的には『ノルウェイの森』)では、「森」とは深い悲しみに迷い込んだ状態を象徴している。

「森」の先に進めば街(死者の世界)が存在する。つまり「森」とは、現実世界と死者の世界を繋ぐ、中間地点の役割を担っているのではないだろうか。

「森」には、街とは別の人種が住んでおり、彼らは過酷な生活を送っている。その中には、図書館の助手の女の子の母親も含まれている。かつて母親は街に迷い込んだが、最終的には心を捨てずに「森」で暮らす選択をした。つまり愛する娘の死によって母親も死の世界に足を踏み入れかけたが、最終的には深い悲しみの中で娘を想い続ける選択をしたのだろう。

そして主人公もまた、母親と同様に、死別という悲しみの中で死者を想い続ける第三の選択、つまり「森」の中で生きる決心をしたのだと考えられる。

作者の自伝的小説

以上の考察とは全く別の解釈も当然可能である。その一つに、作家論的な考察が存在する。

村上春樹は『ノルウェイの森』のあとがきで、本作を自伝的小説と記している。

この「自伝」の意味とは、小説家という職業についての自伝だと考えられる。

小説家とは物語という虚構を創造する職業だ。現実世界から着想を得た虚構の世界を、より強固な物に作り上げ、作品という形で昇華する。これは作中で描かれる「シャフリング」に似ている。情報を頭の中で計算し、強固な物に暗号化させるのが「シャフリング」の技術だ。

要するに「シャフリング」とは、小説を執筆する際の、脳の構造を象徴しているのではないだろうか。そして、村上春樹の頭の中には「世界の終り」のような観念世界が想像し、それとどのように向き合うかが、創作の姿勢なのかもしれない。

また「計算士」がシャフリングによって暗号化した情報を「記号士」が解読する構造は、小説家が創造した作品を読者が解読する構造とも似ている。

以上のことから、主人公が観念世界から脱出しなかった結末は、小説家にとって観念世界は創作上不可欠という意味なのだろう。

つまり観念世界に留まる選択は、村上春樹自身が小説家として生きていくこと、「シャフリング」によって物語を創造し続けることの決心だと考えられる。そういう意味で本作は、小説家村上春樹にとって自伝的な位置付けになるのかもしれない。




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