川端康成の『伊豆の踊子』あらすじ考察 身分の違いによる儚い恋

伊豆の踊子 散文のわだち
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川端康成の小説『伊豆の踊子』をご存知ですか?

1926年に発表された短編小説です。作者が19歳の頃に伊豆で一人旅をした経験から執筆された作品です。本人曰く、この物語は全て事実で、虚構は含まれていないようです。ともすれば、私小説や随筆に相当するでしょう。

川端康成といえば、毎度村上春樹ファンが騒ぎ立てる「ノーベル文学賞」の受賞者として有名です。日本人初で、それ以降も大江健三郎のみに留まっています。世界に評価された数少ない日本作家が描く恋物語には、一体どのようなテーマや心情が描かれているのでしょうか。主人公の生い立ちや、彼と踊り子の身分の違いなどに着目しながら考察していきます。

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『伊豆の踊子』の作品概要

作者川端康成
発表時期1926年(大正15年)
ジャンル短編小説、私小説
テーマ身分が違う恋の儚さ
孤独・憂鬱

『伊豆の踊子』の300字あらすじ

主人公は、孤独と憂鬱に耐えかねて、一人で伊豆を旅しています。

道中に旅芸人の一行と出会い、彼らと旅を共にすることになります。貧しい旅芸人たちといると、悩みが払拭されるように感じます。あるいは、踊子である少女への想いも募っていきます。

主人公は踊子を映画に連れて行く約束をしていましたが、その約束も果たせぬまま、東京へ帰ることになります。

別れの日、踊子はこっそり主人公を見送りに来ていました。ところが主人公が話しかけても、彼女は俯いたまま頷くばかりで口を開きません。舟が遠ざかってから、踊子は主人公に向かって白いものを振り始めます。彼は涙を流しながら、後には何も残らない甘い快さを感じているのでした。

『伊豆の踊子』のあらすじを詳しく

①旅芸人との出会い

孤独憂鬱に苛まれた主人公は、一人で伊豆を旅しています。人生の汚濁に耐えかね、また自らの歪んだ性質を省みるために、旅に出たのです。

旅に出て4日目に、天城峠で旅芸人の一行と遭遇します。主人公は、踊子である17歳くらいの女の子に関心を持っています。これまでの旅路で2度遭遇し、彼女に心を惹かれたため、一行の行手を予想して、ようやく追いついたのでした。

茶屋で休憩する主人公は、店の婆さんに旅芸人の今夜の宿を尋ねます。すると、「彼らは客がいればどこへでも泊まる」と教えてくれます。婆さんの口調には甚だしい軽蔑が含まれていました。

休憩が済んだ旅芸人が茶屋を出発して間も無く、主人公は追いかけるように彼らの向かった方角へと歩き始めました。

②旅は道連れ

旅芸人の一行に追いついた主人公は、一緒に旅がしたい旨を彼らに伝えます。「旅は道連れ、世は情。」、快く受け入れてくれた旅芸人と、少し恥ずかしそうな踊子の姿が感じられました。

湯ヶ野の旅館に宿泊した主人公は、その夜、近くの料理屋の座敷から旅芸人たちが鳴らす太鼓や三味線の音を耳にします。

しばらくすると音は鳴り止み、静けさが訪れました。「踊子の今夜が汚される」ことを想像すると、主人公は胸が苦しくなるのでした。

翌朝、旅芸人の男が主人公の宿を訪れ、温泉に行こうと誘ってきました。主人公は昨夜の「踊子の今夜が汚され」出来事が気がかりで、それとなく男に尋ねてみますが、深くは問い詰めることができませんでした。

男と共同湯にやってくると、連れの旅芸人たちも入浴していました。

突然踊子が真っ裸で現れて、両手を伸ばしてこちらに何かを叫んでいます。豊な髪の装いをする踊子に、大人びた印象を持っていました。しかしその裸体から、本当は彼女が幼い子供であることを知ります。17歳くらいだと思っていた彼女はまだ14歳の子供なのでした。

途端に主人公は、昨夜の苦心が思い違いであることを悟ります。

③踊子との深まり

主人公は踊子に、自分の宿に遊びにくるよう誘います。しかし、彼女1人だけでは躊躇われる様子なので、皆も誘うように伝えます。

自分の宿で旅芸人たちと1時間ほど遊んだ後に、彼らは内湯へ出かけていきます。しばらくすると、踊子が内湯へ行こうと主人公を誘ってきます。主人公は内湯へは行かず、踊り子と二人で五目並べをして遊びます。彼女は徐々に我を忘れたように遊びに夢中になります。しかし、急に「御免なさい。叱られる」と言って部屋を飛び出していきました。

主人公の宿に旅芸人が遊びに来る様子を見兼ねて、宿のおかみさんは「あんな者にご飯を出すのは勿体ない」と私に忠告するのでした。

お互いの宿に出向き、主人公と旅芸人たちは親交を深めます。好奇心もなく、軽蔑も含まない、彼らが旅芸人であることを忘れたような主人公の好意が、両者の心の距離感をぐっと近づけたのです。

夜中、彼らの宿から帰る間際に、下田に到着したら活動(映画)に連れて行くと、主人公は踊子に約束しました。




④踊子の好意に救われる

一行は五里先の下田に向けて旅を続けます。

主人公と男は皆よりも少し先を歩いています。背後からは女たちの話し声が聞こえてきます。踊子が主人公のことを「いい人」だと話しています。自らの歪んだ性質を省みるための一人旅だったので、自分が世間的な意味で「いい人」だと思われていることが、彼にとっては非常に救いになりました。

途中所々の村の入り口には、「物乞い旅芸人村に入るべからず」という立札がありました。

下田に到着すると、主人公は自分の宿を案内してもらうために、ひと度一行と別れます。踊子は独り言のように、「活動に連れて行ってくださいね」と素朴に呟きました。

⑤活動(映画)の約束

当初は一行ともう少し旅を続けるつもりでしたが、旅費が底を突きそうなので、主人公は明日東京に帰ることに決めました。

旅芸人たちには学校の都合で帰ると伝えます。皆はもう1日だけ伸ばせないかと説得してきますが、主人公は学校を盾に断りました。

主人公は女たちを活動に誘いますが、旅の疲れで皆体調が優れないようでした。踊子は自分だけでも活動に行かせて欲しいと母親にせがんでいましたが、他の女たちが一緒に行かないので、母親は許してくれませんでした。

仕方なく、主人公は1人で活動へ行くことにします。

活動に行くことを許されなかった踊子は顔色を失ったように、よそよそしく主人公を見送るのでした。

踊子との約束を果たせなかった主人公は、活動からはすぐに出て、宿に戻りました。遠くからは絶えず踊子の太鼓の音が聞こえてくるような気がします。主人公はわけもなく涙を溢しました。

⑥旅立ちの日

昨夜は遅くまで芸の仕事があったようで、早朝に出発する主人公の見送りには男だけが来ました。他の者はまだ宿で眠っているようです。

ところが乗船場へ行くと、踊子が昨夜の化粧も落とさないままうずくまっていました。

主人公はこっそり見送りに来た踊子にいろいろ話しかけてみます。しかし、彼女は俯いたまま首を振るだけで、一言も話そうとしません。

主人公が船に乗り込むため、縄梯子に捕まろうとして振り返った時に、踊子は「さようなら」と言おうとしたのをやめて、もう一度頷くだけでした。

旅芸人の男はしきりに帽子をこちらに振っていました。港がずっと遠ざかってから、踊子も何か白いものをこちらに向かって振り始めたのが見えました。

主人公は船の中で鞄を枕にして寝転びます。涙がポロポロ枕に溢れました。主人公は溢れるがままに涙を流します。

涙が流れたその後には、何も残らないような甘い快さを感じていたのでした。

そして物語は幕を閉じます。




『伊豆の踊子』の個人的考察

主人公が抱える「孤児根性」とは?

文中に「孤児根性」という言葉が何度か登場します。孤独や憂鬱に苛まれた主人公を表現する言葉として使われています。

作者の実体験を元に綴られた作品であるため、「孤児根性」とは川端康成が実際に抱えていた孤独感なのだと推測されます。

川端康成は幼い頃に両親を亡くし、15歳の頃までには祖父母や兄弟も亡くし、完全な孤児になってしまいます。要するに、親族が死に絶え独りこの世に残されたという逃れようのない孤独感こそが、本作で描かれる「孤児根性」なのでしょう。

主人公は孤児としての孤独や憂鬱によって、卑屈になっていく自分を省みるために旅に出ました。旅先で出会った貧しい旅芸人と交流することで、好意と信頼が生まれます。主人公の孤児としての憂鬱は、貧しい旅芸人の温もりに触れることで回復していくのです。おそらく、孤児としての孤独感は、社会的に阻害されている旅芸人という立場の孤独感と通じる部分があったのでしょう。ないしは、阻害されながらも、生きるために旅を続ける彼らの生命力に感化され、美意識を見出し、自らの克服に繋がったのかもしれません。

虐げられ、差別され、卑しめられる存在に対する愛おしみを、自らに同一視して描かれるのが、本作の重要なテーマだと考えられます。

ちなみに川端康成の死因はガス自殺とされています。遺書が残されていなかったため、動機に関しては様々な憶測が飛び交っています。戦後の日本における喪失感や、三島由紀夫の自殺の衝撃や、ノーベル文学賞の重圧など、推測すればキリがありません。ただ1つ言えるのは、彼の根底には親族を全て失った「孤児根性」という逃れようのない孤独感があったということです。

身分の違い、儚い恋心

本作の主題は、まさに「身分の違いによる叶わぬ恋」です。

主人公、あるいは川端康成は第一高等学校の学生です。第一高等学校とは、今で言うところの東大に進学する学生が通う学校です。また、母方の実家は大地主であり、父は医者でした。つまり主人公は裕福な出身で、将来の日本を背負うエリート学生ということです。

一方、旅芸人とは当時の日本において最下層の身分でした。作中に何度も旅芸人に対する差別的な表現が綴られています。天城峠の茶屋のお婆さんや、湯ヶ野の宿の女将さんが、旅芸人を軽蔑するような言葉を口にします。あるいは、道中の村の入り口には、「物乞い旅芸人村に入るべからず」と書かれた立札がありました。

つまり、主人公と踊子の間には、雲泥の差の身分の違いが存在するということです。

端から主人公は、身分の違い過ぎる踊子との恋は叶わないとわきまえています。それでも主人公は、彼女の魅力に惹かれてしまいます。豊な髪の装い、天真爛漫な幼さ、花のような笑顔、慎ましい恥じらいなど、旅芸人としてのペルソナを超越した人間としての部分の魅力に心を掴まれるわけです。

好奇心もなく、軽蔑も含まない、彼らが旅芸人という種類の人間であることを忘れてしまったような、私の尋常な好意は、彼らの胸にも沁み込んで行くらしかった。

『伊豆の踊り子/川端康成』

人の世が旅芸人を差別する中、主人公は偏見を超えた尋常な好意を踊子に対して抱いているということです。それは、身分が違いすぎる故に決して叶うことのない恋心なのです。

主人公の旅立ちの場面では、踊子は言葉を発さずに頷いてばかりいました。活動を見にいく約束も果たされないまま主人公が去っていく悲しみ、賤しい身分の踊子には引き止めることさえ許されない、そんな二人の間に存在する物理的な距離感が、「さようなら」を口にすることすらも封じ込めてしまったのでしょう。

「踊子の今夜が汚される」に隠された処女の主題

本作の踊子の描写の魅力には、処女の主題が含まれています。

つまり、踊子の恥じらう様子や、天真爛漫な幼さや、花のような笑顔を魅力的に表現するには、彼女が処女であることをあえて作中で取り上げる必要があったということです。

主人公は「踊子が汚される」ことに苦しみを感じています。芸人として旅館や料理屋に出向き、芸を披露したのちに、男に買われることを想像していたのでしょう。しかし、温泉で彼女の裸を見た際に、想像していたよりも彼女が幼い子供であることを知ります。彼女の裸体によって、主人公は踊子の処女を認識したのです。

この一連の「疑念からの潔白証明」が描かれることで、後の踊子の描写がより少女的で、純粋無垢で、汚れのないものへと変わります。現代とは異なり、処女信仰が根強く残っていた時代の作品だからこそ、踊り子を魅力的に描くためには処女の主題が必要不可欠だったのでしょう。




読書感想文

紛れもなく裕福な青年が、自らの孤独を克服するために、行きずりの旅芸人と親交を深めます。ともすれば、青年のエゴイスティックな側面、つまり旅芸人という賤しい身分を利用して、自分の幸福を再確認するような嫌らしさが無かったとも言い切れません。それなのに本作を読み終えた後に、澄み渡る感傷に浸ることができるのは何故でしょうか。

つまり、主人公が彼らに対して、旅芸人というペルソナを超越した部分に魅了されていたからだと思います。

主人公は踊子に対して、同情の眼差しで美意識を見出していたわけではありません。彼女が本質的に備えている、人間としての美しさに魅了されていたのです。あくまで主人公は偏見や差別という世間的な観点を取っ払ったフラットな目線で他者と向き合った結果、踊子の美しさに魅了されただけのことです。

人をフラットな目線にしてくれるのが旅であり、旅先での出会いは、孤独に囚われた自分に世の中との和解をもたらしてくれる、一種の異界への入り口なのです。主人公が天城峠を越えることで、踊子と巡り合えるように。あるいは、トンネルを抜けて駒子に会いにいく、かの「雪国」のように。旅の途中、我々は知らず知らずその不思議な入り口を通過しているような気がします。

踊子の処女的な美しさに魅了されつつ、旅の素晴らしさに焦がれる、素敵な作品でした。

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以上、川端康成の『伊豆の踊子』のあらすじと考察の説明を終了します。

長い間お付き合いありがとうございました。この文章が気に入った方は、是非シェアをお願いいたします。




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