川端康成の小説『伊豆の踊子』は、19歳の作者が伊豆を旅した経験から生まれた作品です。
幾度となく映画化され、吉永小百合、山口百恵、と名だたる女優が演じてきました。
本記事では、あらすじを紹介した上で、物語の内容を考察しています。
さらに映画作品の鑑賞方法も紹介します!
目次
『伊豆の踊子』の作品概要
作者 | 川端康成(72歳没) |
発表時期 | 1926年(大正15年) |
ジャンル | 短編小説、私小説 |
テーマ | 身分が違う恋の儚さ 孤独・憂鬱 |
関連 | 1963年映画化(吉永小百合) 1974年映画化(山口百恵) その他計6回 |
『伊豆の踊子』あらすじ

孤独と憂鬱に苛まれた主人公は、一人で伊豆を旅しています。道中に旅芸人の一向と何度か遭遇し、主人公は踊子の少女に関心を持っていたため、共に旅をすることにします。
湯ヶ野の夜、近くの料理屋から旅芸人の楽器の音が聞こえてきます。踊子が男客に汚されることを想像した主人公は胸が痛くなります。翌朝、旅芸人の男の誘いで温泉に入りました。すると突然踊子の少女が裸で現れて、無邪気に手を振っていました。彼女の裸体を見た主人公は、まだ14歳の子供であることを知り、昨夜の想像は思い違いだったと安心するのでした。
素性の違う旅芸人と交流を深め、主人公は人の温かさを感じました。何より無垢で純情な踊子に思いを寄せられることで、主人公は「孤児根性」を克服できる兆しを感じていました。下田に到着した主人公は、かねてからの約束通り、踊子を活動(映画)に連れて行こうとします。しかし母親が反対したために、主人公は一人で活動に行くことになりました。明日には東京に帰る予定の主人公は、夜の町で遠くから踊子が太鼓を叩く音が聞こえる気がして、わけもなく涙が溢れました。
早朝に出発する主人公の見送りには男だけが来ました。ところが乗船場へ行くと、踊子が昨夜の化粧も落とさずに待っていました。踊子は俯いたまま何も話そうとしません。主人公が船に乗り込む直前に、踊子は「さようなら」と言おうとしたのをやめて、ただ頷くだけでした。港がずっと遠ざかってから、踊子が白いものをこちらに向かって振っているのが見えました。主人公は船の中で涙を溢します。涙が流れたその後には、何も残らないような甘い快さがありました。
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『伊豆の踊子』個人的考察

川端康成といえば、「ノーベル文学賞」の受賞者です。日本人初で、それ以降も大江健三郎のみに留まっています。
世界が認める日本人作家が描く恋物語には、どのようなテーマが込められているのか。主人公の生い立ち、踊子の身分などに着目しながら考察していきます。
主人公が抱える「孤児根性」とは?
文中に「孤児根性」という言葉が何度か登場します。孤独や憂鬱に苛まれた主人公を表現する言葉として使われています。
本作は作者の実体験であるため、「孤児根性」とは川端康成が実際に抱えていた孤独感ということになります。
では川端康成の孤独は何に起因するのか?
川端康成は幼い頃に両親を亡くし、15歳の頃までには祖父母や兄弟も亡くし、完全な孤児になってしまいます。ともすれば、「孤児根性」とは、親族が死に絶え、自分だけが取り残された孤独感を指すのでしょう。
作中では、主人公は「孤児根性」で卑屈になっていく自分を省みるために旅に出ました。そして貧しい旅芸人と交流することで、主人公は克服の兆しを見出します。主人公の孤児としての憂鬱は、貧しい旅芸人の温もりに触れることで回復していくのです。
ある意味、不幸な者同士の共鳴と言えるかもしれません。主人公は孤児です。そして旅芸人は被差別者です。両者の孤独感には通づる部分があったため、主人公は彼らに親近感を抱いていたのかもしれません。ないしは、阻害されながらも、生きるために旅を続ける彼らの生気に感化されていたとも考えられます。
ちなみに、川端康成はガス自殺で死にました。遺書が残されていなかったため、動機に関しては様々な憶測が飛び交っています。戦後の日本における喪失感や、三島由紀夫の自殺の衝撃や、ノーベル文学賞の重圧など、推測すればキリがありません。
ただ1つ言えるのは、逃れようのない「孤児根性」が、彼の根底に存在するということです。
身分の違い、儚い恋心
本作の主題は、まさに「身分の違いによる叶わぬ恋」です。
主人公、あるいは川端康成は第一高等学校の学生です。第一高等学校とは、今で言うところの東大に進学する学生が通う学校です。また、母方の実家は大地主であり、父は医者でした。つまり主人公は裕福な出身で、将来の日本を背負うエリート学生ということです。
一方、旅芸人とは当時の日本において最下層の身分でした。作中に何度も旅芸人に対する差別的な表現が綴られています。天城峠の茶屋のお婆さんや、湯ヶ野の宿の女将さんが、旅芸人を軽蔑するような言葉を口にします。あるいは、道中の村の入り口には、「物乞い旅芸人村に入るべからず」と書かれた立札がありました。
つまり、主人公と踊子の間には、雲泥の差の身分の違いが存在するということです。
端から主人公は、身分の違い過ぎる踊子との恋は叶わないとわきまえています。それでも主人公は、彼女の魅力に惹かれてしまいます。豊な髪の装い、天真爛漫な幼さ、花のような笑顔、慎ましい恥じらいなど、旅芸人としてのペルソナを超越した人間としての部分の魅力に心を掴まれるわけです。
好奇心もなく、軽蔑も含まない、彼らが旅芸人という種類の人間であることを忘れてしまったような、私の尋常な好意は、彼らの胸にも沁み込んで行くらしかった。
『伊豆の踊り子/川端康成』
人の世が旅芸人を差別する中、主人公は偏見を超えた尋常な好意を踊子に対して抱いているということです。それは、身分が違いすぎる故に決して叶うことのない恋心なのです。
主人公の旅立ちの場面では、踊子は言葉を発さずに頷いてばかりいました。活動を見にいく約束も果たされないまま主人公が去っていく悲しみ、賤しい身分の踊子には引き止めることさえ許されない、そんな二人の間に存在する物理的な距離感が、「さようなら」を口にすることすらも封じ込めてしまったのでしょう。
「踊子の今夜が汚される」に隠された処女の主題
本作の踊子の描写の魅力には、処女の主題が含まれています。
つまり、踊子の恥じらう様子や、天真爛漫な幼さや、花のような笑顔を魅力的に表現するには、彼女が処女であることをあえて作中で取り上げる必要があったということです。
主人公は「踊子が汚される」ことに苦しみを感じています。芸人として旅館や料理屋に出向き、芸を披露したのちに、男に買われることを想像していたのでしょう。しかし、温泉で彼女の裸を見た際に、想像していたよりも彼女が幼い子供であることを知ります。彼女の裸体によって、主人公は踊子の処女を認識したのです。
この一連の「疑念からの潔白証明」が描かれることで、後の踊子の描写がより少女的で、純粋無垢で、汚れのないものへと変わります。現代とは異なり、処女信仰が根強く残っていた時代の作品だからこそ、踊り子を魅力的に描くためには処女の主題が必要不可欠だったのでしょう。
川端康成の映画がおすすめ

川端康成の小説は多数映画化されています!
・『伊豆の踊子』吉永小百合
・『伊豆の踊子』山口百恵
・『山の音』原節子
・『夕映え少女』吉高由里子
・『古都』松雪泰子,橋本愛
・『雪国』高橋一生
中でも吉永小百合主演の『伊豆の踊子』は、普及の名作として今もなお愛されています。
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