夏目漱石『草枕』あらすじ解説|冒頭の意味と伝えたいこと考察

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草枕 散文のわだち

に働けばかどが立つ。じょうさおさせば流される。意地をとおせば窮屈きゅうくつだ。とかくに人の世は住みにくい。

『草枕/夏目漱石』

夏目漱石の小説『草枕』は、この有名な一説で始まる初期の代表作である。

物語らしい物語を排除し、写実的に風景を描写する、筋のない実験的な作風が特徴だ。

本記事では、作中で語られる難解な芸術論を考察し、漱石が伝えたかったことを解説する。

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作品概要

作者夏目漱石(49歳没)
発表  1906年(明治39年)  
ジャンル中編小説
ページ数242ページ
テーマ芸術論
小説の小説

あらすじ

あらすじ

画家である主人公は、住みにくい人の世に疑問を感じ、絵を描くため山中の温泉宿にやって来た。その道中や折々で、芸術とは何たるかを思案している。

主人公が宿泊する温泉宿には、那美という若奥様がいた。彼女は夫の事業が傾いたのを機に出戻りしたため、周囲から「非人情」と言われている。だが主人公には「美しい所作をする女」に感じられ、それは彼女が常に芝居をしている風に見えるからだった。

主人公は少しずつ那美と交流を深める。ある時、那美は自分の絵を描いて欲しいと主人公に申し出る。しかし主人公は、「あなたの表情には足りない所があるから絵にならない」と断っていた。彼女の顔に充満するのは人を小馬鹿にする薄笑いばかりで、「憐れみ」の表情が欠けているのだった。

ある日、満州に出兵する那美の従兄弟を見送りに駅までやって来る。すると偶然、汽車の中に同じく満州に旅立つ那美の別れた夫を発見する。汽車の窓越しに別れた夫と見つめ合う那美の顔には、「憐れみ」の表情が浮かんでいた。それを見た主人公は、「それが出れば画になりますよ」と囁き、彼の胸中の絵画が完成するのであった。

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個人的考察

個人的考察-(2)

物語性のない実験的小説

冒頭の「・・・兎角とかくに人の世は住みにくい」はあまりに有名な一説である。

そんな皆が聞き馴染みのある本作『草枕』は、処女作『吾輩は猫である』の10日後に執筆された、初期の代表作である。

『坊っちゃん』を読んだことがある人はご存知だろうが、かつて漱石は熊本県で英語教員を担っていた。その教員時代の漱石が、熊本の小天温泉に出掛けた際の体験が元になり、本作『草枕』は執筆された。

確かに設定上は、温泉宿に来た主人公の日常が舞台になっている。その滞在期間中に那美という女性と交流する様子が描かれているが、しかし物語らしい物語は存在しない。むしろ芸術論が作中の大半を占めており、もはや随筆や評論の類に近い。そのため「一般的な小説」を期待した人は、読むのに苦労しただろう。

実際に漱石はこの『草枕』を、「天地開闢てんちかいびゃく以来、類のない小説」だと語っている。漱石自身も、この作品が文壇や世間に受け入れられることを想定していなかったのだろう。いわば従来のルールを踏襲しない実験的な作品なのだ。

作中では、主人公が小説の適当なページを開けて、前後の筋を気にせず読む場面が描かれる。その変わった読み方について、「小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです」という見解が記されている。まさに本作『草枕』の在り方を漱石が主張しているのだろう。

いわば、文学に必ずしも物語性が必要なのか、という疑問を持つ漱石は、その疑問を体現すべく、意図して筋のない小説を書いたのだろう。事実、漱石は後に、「事件の発展のない小説を文学とみなさない価値感を不快に思う」とエッセイで綴っている。これは当時の西洋文学の価値観に対する批判だったと言われている。

このように、小説(あるいは芸術)に対する見解を主張した小説という意味で、本作『草枕』は「小説の小説」とも言われている。

以上の背景を踏まえた上で、作中で語られる芸術論の意味や、最終的に主人公が見出した思想について考察していく。

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冒頭の名言に込められた意味

智に働けばかどが立つ。情にさおさせば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角とかくに人の世は住みにくい。

『草枕/夏目漱石』

この有名な冒頭には大した意味はない。単に「世間とは生きにくいものだ」と言っているだけだ。重要なのは、なぜ生きにくいのか、どうすれば解決するのか、についての言及だろう。

作中には「人の屁の数を勘定する嫌な奴」という話が登場する。それはつまり、他人をとやかく言う煩わしい俗世を象徴しているのだ。あるいは個性を踏みつけようとする文明批判とも言える。その他にも、権威や金や利害や、世間にはあまりにしがらみが多すぎる。主人公はそういう世の中を生きづらく感じているのだろう。

では、いっそ世捨て人になれば、この生きづらさから解放されるのか?

答えは否である。人の世を捨てた先に存在するのは「人でなしの国」であり、そんな場所はもっと生きづらいらしい。だからこそ、住みにくい世を少しで住み良くする努力をするべきだ、という結論に至っている。その手段として芸術が挙げられている。

では芸術にはどんな効果があるのだろうか?

例えば、失恋の経験は、当事者にとっては耐え難い苦しみである。だが詩人や画家や小説家は、自分の苦しみや悲しみについても、第三者的な位置に立って観察し、それを作品に昇華することができる。あらゆる出来事は芸術の題材になり得るということだ。

こうした第三者的な立場に身を置く芸術家は、ある意味では冷めた態度で世間を傍観する、情の欠けた人間だろう。そういう意味で、作中では「非人情」という表現が使われている。

言うなれば本作『草枕』は、俗世に生きづらさを感じた主人公が、「非人情」を求めて山中の温泉宿に赴き、絵の完成を試みる物語なのだ。

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自然こそ最も優れた芸術対象である

前述した「第三者の立ち位置(非人情)」にまつわる芸術論は、作中で繰り返し語られる。

この「第三者の立ち位置」として最も理にかなった芸術の対象物が「自然」である。なぜなら自然には人情といった俗な感情が存在せず、対人関係の煩わしさが発生しないからだ。自然が人にとやかく文句をつけることはないし、あるいは自然に対して同情することもない。ある意味絵画のように平面な世界として干渉することができるのだ。

だが人の世だとそうもいかない。なぜなら他者は絵画のように平面ではなく、立体的な前後の動きによって自分に働きかけてくるからだ。その働きかけによって、他者に対する人情が芽生え、それが結果的に苦しみや悲しみという感情に繋がってしまう。

だから主人公は俗世を感じにくい、自然豊かな山中の温泉宿に来たのだろう。だがいくら山中とはいえ、そこには人間が存在する。人間が存在する以上、彼らは立体的な前後の動きによって自分に働きかけてくる。この対処法として、主人公は彼らと一定の距離感を保つことを意識している。やたらに詮索せず、深く関わらないことで、彼らを絵画的に観察しているのだ。

言うなれば、人情が入り込まない距離感で芸術を創作するのが相応しい、ということだ。

こうした第三者の価値観に則るごとく、本作『草枕』はひたすら写生的な描写が綴られる。主人公が思案する芸術的な価値観が、そのまま本作に施されているのだ。ともすれば、読者の側もいちいち俗な意味解釈をせず、純粋に絵画を見るような気持ちで読み進めればいいのかもしれない。

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那美という女性について

第三者の立場(非人情)を意識する主人公だが、しかし那美という女性とはやや深く交流しているように見える。

なぜ那美だけは特別なのか。その理由には彼女の生活的な背景が関係している。

那美はかつて結婚して土地を離れた身だった。しかし夫の勤める銀行が潰れ贅沢ができないと知った途端、出戻りした。そのため周囲の人々からは、薄情とか気狂いとか呼ばれている。

そんな訳ありな那美の所作について、主人公はとてつもない美しさを感じている。その美しさの理由は、彼女が常に芝居をしている風に見えたからだ。確かに那美はどこか掴み所のない奇妙な存在で、当時の女性らしさを象徴する恥じらいの様子が一切感じられない。そのせいで男狂いの噂を立てられている。

だが実際は、出戻りに対する後ろめたさから、那美は虚勢を張っているのだ。彼女の顔には、人を小馬鹿にするような勝ち気な表情が滲み出ていた。それが虚勢を張っている証拠である。別れた夫のことなど微塵も気にかけない、という軽薄なキャラをわざと演じることで、世間の厳しい目に屈しない強い女性であろうと努力していたのだろう。それが「芝居をしている風」に見えた原因である。

つまり、那美もまた虚勢を張ることで人情を手放し、第三者の冷酷な立場で人の世に接しているのだ。そういう意味で、主人公と那美は「非人情」を共有しているため、深く交流することになったのだろう。

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人情へ回帰したラスト場面

非人情を努める那美は、ある時、自分の絵を描いて欲しいと主人公に願い出る。しかし主人公は、「あなたの表情には何かが欠けているから絵にならない」と断っていた。

那美に足りないのは「憐れみ」の表情だった。ともすれば矛盾が生じる。主人公は人情が入らない対象物を、芸術に仕上げるつもりだった。しかし「憐れみ」は人情に違いない。

このことから分かるのは、非人情を求め山中に来た主人公は、那美との交流を通して、徐々に他者との関係性を回復しつつあったのだ。それに呼応する形で那美も人情を回復する。

那美には別れた夫がいた。夫は満州に出兵する前に那美の元を訪れた。その出来事について彼女は、夫が戦地で死のうが死ぬまいが興味がないと、「非人情」な態度を貫いていた。ところが従兄弟の出兵を見送るために訪れた駅で、偶然列車の窓越しに夫を発見した那美の顔には「憐れみ」の表情が浮かんでいた。虚勢を張り「非人情」の芝居をしていた彼女は、夫との離別に際し、人情への回帰を果たしたのだ。

そして那美の顔に浮かぶ「憐れみ」の表情を見たときに、主人公は初めて彼女が絵の対象物になり得ると感じた。それはあるいは「非人情」な芸術を追求していた主人公が、人情に回帰した瞬間だったと考えられる。

人の世を気鬱に感じていた主人公と那美が、「憐れみ」を通して、人の世に回帰していく物語だったと解釈できよう。

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