芥川龍之介の『蜜柑』あらすじ考察 綺麗じゃなくても美しいもの

蜜柑 散文のわだち
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芥川龍之介の隠れた名作と言えば『蜜柑』でしょう。

1919年に発表された短編小説で、芥川龍之介本人の体験をもとに描かれたエッセイのような作品です。

数頁の非常に短い文章であるにもかかわらず、心理的な象徴や対称構造が非常に優れています。最も美しいラストと評される本作に込められた、作者の心情や主題を紐解いていきます。

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『蜜柑』の作品概要

作者芥川龍之介
発表時期1919年(大正8年)
ジャンル短編小説、エッセイ
テーマ憂鬱と美、美の本質

『蜜柑』の簡単なあらすじ

不可解な、下等な、退屈な人生」に、そこはかない疲労と倦怠を感じている主人公は、横須賀駅で汽車が発車するのをぼんやりと待っていました。珍しく乗客は自分以外に誰もいません。

発車寸前に14歳くらいの娘が乗り込んできて、自分の向かいに座ります。いかにも田舎娘といった容貌で、ヒビだらけの赤く火照った頬は非常に下品に感じられました。主人公はこの娘が「不可解で下等で退屈な人生」を象徴しているように感じ、不快感を抱きます。気を紛らわすために新聞を読んでも平凡な出来事ばかりで鬱屈した心は晴れません。

トンネルに入ったあたりで、娘は列車の窓を開けます。途端に黒煙が車内に流れ込み、主人公をさらに不快にさせます。列車がトンネルを抜け踏み切りに差し掛かると、踏切の柵の向こうでは頬の赤い3人の男の子が、一斉に手を上げて歓声を迸らせていました。娘は汽車の窓から身を乗り出し、男の子たちに向かって色鮮やかな蜜柑を投げました。娘が奉公先に赴くのを、弟たちが見送りに来ていたのだと主人公は理解します。

車窓から色鮮やかな蜜柑を弟たちに投げた娘は、相変わらず頬がヒビだらけの田舎娘でした。ところが主人公には娘が先ほどまでとは別人のように見えます。主人公はこの時に初めて、「不可解な、下等な、退屈な人生」を僅かに忘れることが出来たのでした。




『蜜柑』の個人的考察

作中の象徴的な事物

不可解なもの トンネルの中に入った汽車
下等なもの 容貌の醜い田舎娘
退屈なもの 平凡な新聞記事
内面の美 色鮮やかな蜜柑

外観の美と内面の美

詩的、観念的である本作が指し示す主題は、おそらく美しさはとは一体何なのかということでしょう。

不可解な、下等な、退屈な人生」を象徴する醜い容貌の娘に対して、当初主人公は不快感を抱いていました。ヒビだらけの頬や汚い身なりなど洗練されていない田舎娘の見窄らしい姿に、下品な印象を抱いていたのです。

ところが、娘が奉公先に出向く立場であり、見送りに来た弟たちに報いる意味で蜜柑を投げる姿を見て、娘に対する印象は変化します。「不可解な、下等な、退屈な人生」を象徴する存在が、「不可解な、下等な、退屈な人生」を忘れさせる存在へと変化したのです。

要するに、外観の醜い少女の内面に本当の美しさを見出したのでしょう。

対する主人公、つまり芥川龍之介は美男子でありますが、「不可解な、下等な、退屈な人生」に疲労と倦怠を感じています。娘とは真逆の、外観は洗練されていても内面が荒んだ人間なのです。

言いようのない倦怠に捕われた主人公が、娘の内面に美しさを見出したことで、人間の本質的な美の在り方に気づき、物事の捉え方を改めたのでしょう。物事の表層に鬱する切羽詰まった心持ちが、物事の本質を見抜く余裕や豊かさを幾分か取り戻したのだと思います。

巧みな色彩の表現

本作にぐっと胸を掴まれるのは、文中での色彩表現の使い方が非常に巧みだからでしょう。

物語の舞台は「或曇った冬」であり、冒頭から彩度に欠ける陰鬱とした雰囲気を感じさせます。列車の窓には動力となる石炭の煙が蔓延しています。憂鬱な気分を紛らわすために主人公は新聞に目を向けますが、当然灰色の紙、内容も平凡な話題ばかりです。列車がトンネルに入る場面も強調されて描かれています。娘が開け放った窓からは煤を溶かしたような黒い空気が入り込んできます。また踏切に娘を見送りに来ていた弟たちの着物も「陰惨たる色」と表現されています。

このように物語のほとんどが、黒や灰色など彩度に欠ける色調で表現され、気分の晴れない陰鬱とした様子を演出し続けているのです。

そこに突然「心を躍らすばかり暖な日の色に染まっている蜜柑」が登場することで、物語は一気に色鮮やかな印象に変わり、透き通るような芳潤な世界が脳内に広がります。

発表当初『私の出遇つた事』というタイトルだったのを、後に『蜜柑』に改題したことから判るように、色鮮やかな蜜柑によって心が晴れる描写こそが作品の味噌なのでしょう。




美しいと綺麗は異なる

「美しい」と「綺麗」は必ずしも同一ではないという哲学を本作から読み取ることが出来ました。「綺麗」と「醜い」は相反する概念ですが、「美しい」と「醜い」は両立するという、殆ど芸術家特有の感性です。

芸術家は必ずしも綺麗なものばかりを描くのではなく、むしろ混沌の中の美に目を向けて、自分だけの美的感覚を表現するものではないでしょうか。それが大衆的に綺麗ではなくても、美しいことだって往々にあるわけです。

ザ・ブルーハーツというバンドの代表曲『リンダリンダ』の冒頭の「ドブネズミみたいに美しくなりたい、写真には写らない美しさがあるから」という一説が内包する哲学と非常に近しいものを感じました。

主人公が向かいの席の田舎娘に対して当初抱いた不快感というのは、「写真に写る」娘の表層に向けられた感情でした。

一方で、見送りに来た弟たちのために娘が蜜柑を投げる様子には、主人公が当初知り得なかった物語の背景が写し出され、奉公先に赴く悲しい境遇と、娘が小さい弟たちを想う愛情が主人公の胸に特別な印象を与えます。それらは決して「写真には写らない」、娘の内に秘められた本質的な美しさではないでしょうか。

「ドブネズミみたいな美しさ」という言葉に矛盾を感じる人は、ある種物事の表層にばかり目を向けて、本質を理解していない下劣な人間だということでしょう。本作『蜜柑』の主人公も、人生の倦怠に捕われていたからこそ当初は表層にばかり目を向けていましたが、内面の美しい娘によって本質を見抜く心の豊かさを取り戻したのだと思われます。

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以上、芥川龍之介の『蜜柑』のあらすじ考察を終了します。

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