芥川龍之介の『羅生門』あらすじ考察 生きるために悪事を働くのは悪?

羅生門 散文のわだち
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芥川龍之介の小説『羅生門』をご存知でしょうか?

1915年に発表された短編小説で、芥川龍之介のキャリアでは初期の作品になります。実際に執筆されたのは、彼が帝国大学(東京大学)に在学していた最中だと言われています。

人間のエゴ」に焦点を当てた彼の作品は、当時の日本の文学界において革新的でした。明治を代表する天才作家「夏目漱石」ですら、芥川龍之介の作品を絶賛し、「新しい時代の作家になる」と提言したほどです。その言葉通り、芥川龍之介は大正時代を代表する天才作家の一人になりました。

今回取り扱う『羅生門』を学生時代に教科書で読んだものの、不気味な雰囲気ばかりが先行して、いまいち内容が理解できなかった人も多いのではないでしょうか?

そんなあなたのために、今回は芥川龍之介が一貫して描き続けた「人間のエゴ」というテーマに焦点を当てて、「羅生門」の物語を考察していこうと思います。

ちなみに「羅生門」とは、実際に平安京(京都)の中央大通り朱雀大路の南端にあった正門の名前です。816年の台風で倒壊し、一度は再建されますが、980年に暴風雨で再び倒壊し、その後は再建されることがありませんでした。現在は、羅生門跡地として、公園の中に石碑が建設されています。

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『羅生門』の作品概要

作者芥川龍之介
発表時期1915年(大正4年)
ジャンル短編小説
テーマ人間のエゴイズム

『羅生門』の300字あらすじ

平安末期の京都は飢饉で荒廃しており、羅生門は死体を不法投棄する場所になっています。

ある時、職を失った下人が羅生門で雨宿りをしていました。寝床のない彼は、門の2階で夜を明かすことに決めます。

下人が羅生門の2階に上がると、見知らぬ老婆が、かつらを作って売るために死体から髪の毛を抜いていました。下人は老婆の悪事を問い詰めます。すると老婆は自分の行為が悪だと認めながらも、生前に悪いことをした人間の死体だから髪を抜いても許されると、自分の悪事を正当化します。

それを聞いた下人は、老婆の理論に則って自分も悪事を正当化します。つまり、悪事を働いた老婆の着物を奪い取り、去っていくのでした。

『羅生門』のあらすじを詳しく

①荒廃した京都

時は平安末期。災害や飢饉の影響で荒廃し切った京都が舞台です。

かつて貴族の華やかな文化が栄えた京の街も、今では手をつけられないほど無残な様子です。当然、荒れ果てた羅生門を修理する者などいません。そのため、羅生門には盗人が住みつくようになり、終いには引取手のない死体を不法投棄する場所になっています。

このような最下層の民度を前提に、物語が幕を切ります。

ある夕暮れ時、一人の下人が羅生門で雨宿りをしていました。衰退した時代の影響で、下人は主人から暇を与えられたようです。つまり、無職になり途方に暮れていたのです。

下人の心の中では道徳が揺れ動いています。

手段を選んでいたら自分は餓死する運命です。だからと言って、生きるために盗人になる決心は付きません。

優柔不断なまま、下人は羅生門の下で途方に暮れているのでした。

②死人の毛を抜く老婆

今夜の寝床さえ当てがない下人は、羅生門の楼(2階)で夜を明かすことにします。

梯子を上り、楼の様子を伺うと、噂通り多くの死体が捨てられていました腐った死体の臭気に鼻を覆った下人ですが、次の瞬間、あるものが目に入ります。

死体の中に、白髪の生きた老婆がうずくまっているのです。老婆は女の死骸から髪の毛を抜き取っています。

途端に下人は強い憎悪を抱きます。

目的はさておき、死人の髪の毛を抜く行為は、下人にとって決定的な悪であり、憎むべき対象だったのです。ほんの数分前には、盗人にならないと野垂れ死ぬ運命だと、自分の中で道徳心が揺れ動いていました。しかし、老婆の行為を目にした途端に、端緒のない正義感だけが溢れ出したのです。

下人は逃げ出そうとする老婆を捕まえ、何をしていたかを問い詰めます。すると老婆は、生活のために死体から毛を抜いてかつらを作ろうと思っていたと、正直に打ち明けます。

さらには、自分の悪事を正当化する言い分も主張します。

老婆が髪の毛を抜いている女は、生前に悪事を働いていました。女は蛇の身を干したものを干魚だと偽って売り、生計を立てていたのです。荒廃し切った京都では、他人を欺かなければ自分が餓死するため、悪事を働かざるを得なかったのです。

老婆も同じように、死人の髪の毛でかつらを作らなければ、餓死してしまう状況です。

つまり、生きるために悪事を働いた女の死体の髪の毛を抜いて、生きるためにかつらを作る老婆は許される、という理論を主張しているのです。

下人は老婆の主張を冷静に聞いていました。

③決心する下人

生きるために悪事を働く行為を正当化する老婆でした。

老婆の主張を聞いた下人は、あることを決心します。それは、雨宿りをしている時に考えていた道徳の問題です。下人は生きるために盗人になる決心がついたのです。

「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、餓死する体なのだ」

『羅生門/芥川龍之介』

下人は無理やり老婆の着物を奪います。そして、足にしがみ付いて抵抗する老婆を蹴り倒しました。着物を脇に抱えた下人は羅生門の梯子を降りていきます。

老婆は呻き声を立てながら、梯子の入口から門の下を覗き込みました。しかし下人の姿は既にありませんでした。

その後の下人の行方を知る者は誰もいません。

ここで物語は幕を閉じます。




『羅生門』の個人的考察

他人の悪事は絶対的な悪になる

生きるために悪事を働くのは悪なのか?

下人は羅生門で雨宿りをしながら、こんな途方もないテーマについて考えていました。そして、生きるために悪事を働く老婆と出会うことで、自分も悪事を働く決心をします。

下人は当初、悪事を働くことに対して躊躇していました。「盗みは悪だ」という漠然とした道徳と、「盗みをしなければ自分は餓死する」という個人的な問題が相反していたからです。

つまり、「道徳を守れば自分は死ぬし、生きようとすれば道徳に逆らうことになる」という極論を強いられていたわけです。

そのため、下人はどちらを選ぶこともできずに羅生門の下で佇んでいました。

ところが、死人の髪の毛を抜く老婆を見た時に、下人は憎悪を感じます。

悪事を働く人間を目にして、悪を憎む気持ちが彼に芽生えたのです。しかし、下人も数分前には悪事を働くかどうか迷っていました。それどころか、いまだ結論を出せず、いつ悪事を働いても可笑しくない心持ちです。それなのに、他人が悪事を働いている様子を目にすると、自然と絶対的な正義感によって悪を憎んでしまうのです。

自分の悪事は「生きるために仕方ない」という建前で許され、他人の悪事は絶対的な悪として憎んでしまう、人間の利己的な心情が描かれています。

老婆は下人の将来の姿!?

老婆の言い訳を聞いた下人は、生きるために悪事を働く選択をします。

老婆は「生前に悪事を働いていた女の死体だから、髪の毛を抜いても許される」と主張します。

「盗みは悪」ですが、「盗みをしなければ自分は死ぬ」状態です。それならば、悪事を働いている人間に対して悪事を働けば、自分は許されるという中間をついたような理論が主張されたわけです。

その理論に則れば、悪事を働く老婆に悪事を働けば下人も許されるということになります。自分の悪事を正当化すると同時に、他人の悪事をも正当化してしまう理論であるためです。その結果、老婆は下人に着物を盗まれてしまいました。

つまり、悪事の犠牲者のバトンが下人に渡されたわけです。下人は老婆の着物を盗んだことで、今後自分が誰かに悪事を企てられても文句が言えない立場になりました。このように、悪事の犠牲者のバトンは永遠に繋がれる因果なのです。

人間の道徳のフェンスは非常に低いものです。我々はフェンスの内側にいる時は向こう側の人間を批判するくせに、いざ自分が危機に直面すれば簡単にフェンスを飛び越えます。人間の正義感とは自分の都合の良いように解釈する行為でしょう。いざとなれば、道徳など何の役にも立たないという、リアリスト的な視点で、利己主義の醜さを表現した物語でした。




なぜ「人間のエゴ」というテーマが革新的だったのか?

芥川龍之介が生涯を通して表現したテーマは「人間のエゴ」でした。つまり「人間の醜さ」です。

例えば、『羅生門』の主人公である下人は、道徳に対する葛藤を抱えていました。悪事を働かなければ餓死してしまう、しかし悪事を働く決心もつかない、という不安定な状態です。しかし、死人の髪の毛を抜く老婆と出会ったことで、下人の考えは確固たるものになります。生きるために悪事を働く選択をするのです。

要するに、「自分さえよければいい」という人間のエゴが、下人の心理描写、ないしは老婆の主張によって秀逸に表現されています。

では、こういった人間のエゴに焦点を当てた作品が、なぜ当時は革新的だったのでしょうか?

芥川龍之介は大正時代を代表する天才作家です。前時代、明治の天才作家と言えば夏目漱石です。この2つの時代の間にどんな変化があったのでしょうか。それは二人の作家の特色を比較すれば見えてくると思います。

まず、夏目漱石の作品の特徴は、「明治」という時代背景に焦点を当てている点にあります。要するに、前時代的な不自由さに葛藤する人間が描かれていることが多いです。全体主義の風潮の中で、個人主義的な考えが受け入れられない窮屈さが彼の一貫したテーマです。

例えば、「こころ」や「三四郎」では、全体主義的な風潮には受け入れられない恋愛感が描かれていました。あるいは「こころ」に関しては、乃木希典の自殺や明治時代の終焉などの喪失感も裏テーマとして描かれています。

簡潔にまとめるなら、夏目漱石の作品は、時代や周囲の人間など外的要因によって、人間が葛藤するという描かれ方なのです。尚且つ、葛藤した結果、外的要因に敗北する傾向にあります。「こころ」の先生は自殺します。「三四郎」の恋は叶いません。

一方で、芥川龍之介の作品は、外的要因が一切無視されています。

あくまで自己の内部の葛藤のみに焦点が当てられ、最後にはエゴを貫き通します。まさに、「羅生門」の下人は、「生きるために悪事を働くか」という完全に個人的な問題と葛藤しており、最終的には「自分がよければいい」という結論に至ります。

このように、芥川龍之介の作品は、人間がいかに利己的であるか、という個人主義の果てのテーマが前提にあります。芥川龍之介は前時代の作家よりもさらに個人の内側に踏み込んだのです。個人の内面を奥深くまで追求し、人間の本質的な醜さを露呈するという表現方法が、前時代にはなかった新しい作風として評価されたのです。そこには、明治から大正へ移る過程で、全体主義よりも個人主義的な風潮が強くなった時代背景が関係しているのだと思います。

こういった個人主義の風潮は、やがて芥川龍之介の中期の傑作『地獄変』に見られる、「芸術至上主義」的な考えへと発展します。

あるいは、周囲の人間を巻き込んででも自己の内面を露呈する太宰治のような奇才を排出するきっかけにもなったのではないでしょうか。現在、我々が自己の内面と向き合った時に、様々なアートやエンターテイメントが生み出されるのは、芥川龍之介が開拓した道なのかもしれません。

以上、芥川龍之介の『羅生門』のあらすじと考察の説明を終了します。

長い間お付き合いありがとうございました。この文章が気に入った方は、是非シェアをお願いいたします。




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