川端康成『みずうみ』あらすじ解説|美と狂気が錯綜する衝撃の問題作

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みずうみ3 散文のわだち

川端康成の小説『みずうみ』は、発表当時に賛否を巻き起こした衝撃の問題作で、現在では最高傑作と称されることが多い。

美しい女を見かけると尾行してしまう奇行癖を持った男の物語が、現実と幻想と回想が錯綜した前衛的な作風で描かれる。

後期の川端文学の重要テーマである「魔界」が如実に表れた最初の作品でもある。

美しい女を尾行する目的は何か。みずうみの世界には何があるのか。「魔界」とは何を意味するのか。

本記事では、あらすじを紹介した上で、物語を詳しく考察していく。

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作品概要

作者川端康成(72歳没)
発表時期  1954年(昭和29年)  
ジャンル長編小説
ページ数126ページ
テーマ魔界の文学
究極の美の世界
変質者の意識の流れ

あらすじ

あらすじ

桃井銀平には美しい女を見かけると尾行してしまう奇行癖がある。

その時も銀平はある女を尾行し、女が逃げ出す際に落としたバッグを盗んでしまった。罪の恐怖から銀平は信州へ逃げ出した。そして軽井沢のトルコ風呂にやって来た銀平は、美しい湯女ゆなのマッサージを受けながら、教師だった頃に尾行した教え子の久子、少年時代の初恋相手の従姉いとこのやよいを回顧する。

銀平の母は湖近くの名家の生まれだが、父は落ちぶれた醜い男だった。銀平は父から遺伝した醜い足がコンプレックスである。この醜い血筋のせいで銀平一家は母方の親類に忌み嫌われ、父が湖で変死して以降は、愛するやよいすら銀平を露骨に見下すようになった。

高校教師になった銀平は、ある日、教え子の久子を尾行する。ややあって二人は恋仲になった。しかしそれが原因で銀平は教職を追われ、久子は転校した。その後も二人は密会を続けていたのだが、久子の部屋に忍び込んだことが両親にバレて二人は破局に至った。

例のハンドバッグを落とした女には大学生になる弟がいる。弟の友人である水野は美しい少女・町枝と交際している。町枝が犬の散歩を建前に水野に会いに行く道中、彼女を見かけた銀平はあまりの美しさに尾行する。そしてたまらず声をかけた銀平は、町枝の美しい目の中にある「黒いみずうみで泳ぎたい」という奇妙な憧憬を覚える。

後日にまた町枝を尾行した銀平は、そのあとに上野へ行き、偶然話したゴム長靴を履いた醜い女と酒を飲むことになる。これまで美しい女ばかり尾行していた銀平は、醜い女を前にして妙な安心と親愛さえ感じるが、安宿に入る段になって吐き気を催し、女を振り解いてアパートに帰る・・・

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個人的考察

個人的考察-(2)

創作背景と作品の時間構造

本作『みずうみ』は、川端文学で最も前衛的と言われ、発表当時は賛否を巻き起こした。それまでの読者が困惑し、川端の熱心な理解者である三島由紀夫も難色を示した。

現在では最高傑作と称されることが多く、後期の川端文学の最重要テーマ「魔界」が実を結んだ作品として高く評価されている。(「魔界」については次章で詳しく解説する)

当時賛否を巻き起こした理由は、現実と幻想が錯綜した超現実的な世界観、そして、ひたすら過去を回想することで物語の時間軸を消滅させた手法があまりに前衛的だったからだ。

確かに過去の出来事が無秩序に並んでいるため時系列を把握しずらいが、実は物語は円環構造になっている。

■円環構造の物語

円環構造とは、冒頭から過去に遡り、最終的に冒頭の時間に戻ってくるものを指す。

『みずうみ』の物語はざっくり下記のように分割できる。

・軽井沢のトルコ風呂(現在)
・女を尾行してハンドバッグを盗む(回想)
・教師時代の教え子との恋愛(回想)
・少年時代の従姉への初恋(回想)
・美しい少女・町枝を尾行(回想)
・ゴム長靴の醜い女から逃げ出す(回想)

文庫本ではここで終了するが、実は当時雑誌に連載された際には幻の続きが存在した。

ゴム長靴の女から逃げ出しアパートに帰った銀平は、教え子だった久子の夢を見て、その数日後に女を尾行してハンドバッグを盗む。罪の恐怖から軽井沢に逃亡するが、宿の番頭にハンドバッグの中の金を見られる危険を感じ、バスに乗って夕日の中に姿を消して幕を閉じる。

回想を経て最終的に現在の軽井沢の時間に戻ってくるのだ。これが円環構造である。

しかし単行本で刊行される際に川端は続きの部分を削除し、未完の状態で発表した。現在ではこれをひとつの完成形とみなし、むしろ続きの章がない時間軸が壊れたものの方が、掴み所のない謎めいた魅力があると言われている。

この謎めいた魅力こそ本作最大の特徴で、時間軸がないゆえに現実と幻想の境界線がぼやけている。そのぼやけた境界線が、「魔界」の入口になっている。

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テーマ「魔界」について

後期の川端文学の重要テーマ「魔界」という言葉は、室町時代の僧である一休の「仏界易入 魔界難入」という説法に由来する。

仏界には入りやすく、魔界には入りずらい。

この説法を川端は次のように解釈している。

意味はいろいろに読まれ、またむずかしく考えれば限りないでしょうが、「仏界入り易し」につづけて「魔界入り難し」と言い加えた、その禅の一休が私の胸に来ます。究極は真・善・美を目ざす芸術家にも「魔界入り難し」の願い、恐れの、祈りに通う思いが、表にあらわれ、あるいは裏にひそむのは、運命の必然でありましょう。「魔界」なくして「仏界」はありません。そして「魔界」に入る方がむずかしいのです。心弱くてできることではありません。

『美しい日本の私/川端康成』

仏界が崇高な悟りの世界だとすれば、魔界は道徳を超越した<究極の美>の世界だろう。

しばしば悪魔に魂を売ることで芸術を極めると言ったりする。それは罪や道徳を犯してでも美を追求する芸術至上主義のことだ。

例えば芥川龍之介は『地獄変』という作品で、愛する娘の命を犠牲にすることで屏風を完成させる絵師の物語を描いた。芸術のためならいかなる犠牲もいとわない。そんな風に罪を犯してでも美を追求するのは容易ではなく、それは芸術家の苦しい宿命なのだ。

川端文学の場合は、抑えきれない愛欲によって罪深い恋愛に身を落とす人間に、究極の美を見出すことが多い。罪を犯してでも愛欲に生きた時、その人間は芸術的な美を獲得するのだ。

本作『みずうみ』では、銀平は美しい女性を見かけると尾行せずにいられない。それは罪を犯してでも美を追求してしまう、「魔界」に入りたい衝動の表れだろう。

しかも銀平は、自分が後をつける女は後をつけられたがっている、と思い込んでいるので、もはや狂気的な変質者の域に達している。

そしてある時、銀平はかつてないほど美しい町枝と遭遇する。これまで尾行するだけで何かアクションを起こすことはなかったが、この時ばかりは声をかけてしまう。そして町枝の目の中にある「黒いみずうみで泳ぎたい」という不気味な憧憬を覚える。

少女の目が黒いみずうみのように思えて来た。その清らかな目のなかで泳ぎたい、その黒いみずうみに裸で泳ぎたい

『みずうみ/川端康成』

タイトルにもなるこの黒い「みずうみ」こそ、魔界の入口のことだろう。みずうみの外側には現実世界があり、中には「魔界」がある。

では銀平は「みずうみ」の中の「魔界」に何を求めているのか、次章にて詳しく考察する。

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銀平が求める「みずうみ」の魔界

銀平にとって「みずうみ」の原点は、母方の実家近くの湖の記憶にある。

少年時代の銀平は初恋相手の従姉のやよいを誘い出して岸辺を歩き、湖に反射する二人の姿に<永遠>を見ることに幸福を感じていた。

しかし二人の関係は永遠ではなかった。身分違いの醜い父が死んで以来、その血を引く銀平は良家の母方の親族に忌み嫌われ、愛するやよいにも見下される。愛する者に見下されたことで愛憎を抱いた銀平は、なんと、やよいを湖に突き落としたい衝動に駆られる。

銀平にとって湖は永遠の象徴だ。現実では愛する人間は永遠ではない。やよいに限らず教子だった久子との幸福も長く続かなかった。だから銀平は湖に彼女たちを突き落とすことで、彼女たちを永遠の世界に閉じ込めてしまいたかったのだろう。

実際に銀平は次のような台詞を口にする。

この世の果てまで後をつけるというと、その人を殺してしまうしかないんだからね。

『みずうみ/川端康成』

この世の果てまで人を愛しても、永久に自分のものになることはない。もし彼女たちを永久に手に入れたいなら殺すしかないのだ。恐ろしい犯罪者の思考である。

川端康成は写真集『湖』の編集を担当した際に次のような前書きを記した。

湖の多くは遠いむかし地の奥から火を噴きあげた火口に水をたたえてできた。火はしずまる時が来るが、水には時がない。

『湖-前書き/川端康成』

湖の中には時間が存在しない。それは死の世界のことである。銀平の父は湖で変死した。銀平はネズミの死骸を湖に捨てることがあった。そして愛するやよいを湖に突き落としたいと考えた。それらは全て時間の存在しない永遠の死の世界に対する銀平の憧れの発露になっている。

そして銀平は、町枝を尾行した際に彼女の目の中の「黒いみずうみで泳ぎたい」と思う。かつて愛する者を湖に突き落としたいと考えていた銀平は、自らも湖に入りたいと願うようになるのだ。それは現実では叶わない愛欲の美を死後に叶えたいという希死願望であろう。

究極の美とは死して完成するものであり、「魔界」とは死によって時間を失った永久の美の世界なのかもしれない。

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ゴム長靴を履いた醜い女との結末

物語のラストは、上野の地下街でゴム長靴を履いた醜い女と酒を飲み交わし、そのまま安宿へ向かおうとするが、途中で女を振り払ってアパートに帰る場面で終わる。

これまで美しい女の魔性ばかり追いかけていた銀平が、最後には醜い女と過ごして物語を終えるのは奇妙な結末である。

注目すべきは、美しい女を尾行する際には、銀平は様々な幻覚を見たのに対し、醜い女と過ごす時間には、幻覚が表れない点だ。そしてみずうみを想起することもない。ただ現実だけがそこに存在する。

銀平が美しい女を尾行したのは、自らの醜い足のコンプレックスから逃れるためだったと考えられる。過去に醜い自分を完全に許容してくれたのは美しい母だけだった。けれども母は病気で死んだ。だから銀平は母以外に自分の醜さを許容してくれる美しい女性を求め尾行を繰り返していたのだろう。時に教子の久子のように恋仲になることはあっても必ず破局が訪れた。そして彼女たちが自分から離れていく度に、銀平は自分の醜い足を通じて自己否定せずにはいられなかったのだ。

銀平は町枝を初めて見かけた際に次のような独り言を漏らす。

「来世は僕は美しい足の若ものに生まれます。あなたは今のままでいい。二人で白のバレエを踊りましょう。」

『みずうみ/川端康成』

現世において自分の醜い足を許容してくれる美しい女と巡り会うことを諦めている。諦めているからこそ、みずうみの中の死後の世界に憧憬を抱いている。その憧憬が様々な幻覚となって銀平の目の前に現れているのだろう。

一方でゴム長靴を履いた醜い女と過ごす時間に幻覚が現れないのは、自分の醜い足に気後れを感じないくらい女も醜くかったからだ。醜い女の前では銀平は、醜い現実の自分と、美を渇望する幻覚の自分が分裂することがなかった。ありのままの醜い自分でも気後れを感じないからだ。だから銀平は醜い女に対して安心と親愛を感じていたのだろう。

銀平がコンプレックスを克服するには、美の世界を望むのではなく、醜い世界に回帰する必要があったのだ。そして醜い女と安宿で体を結合させた時に、銀平の分裂した自己は1つに統合するはずだったろう。

ところが銀平は最後の最後に自己嫌悪を感じ女を振り払ってアパートに帰る。醜い自分を許容することを銀平は拒否したのだ。

そして銀平は再びみずうみの世界を求めて女を尾行するようになる。その結果、宮子のハンドバッグを盗むことになり、軽井沢のトルコ風呂に足を運ぶことになったのだ。

その後、銀平がどこへ向かったのかは、誰も知らない。

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